11月はわれわれ夫婦の37回目の結婚記念の月。
例年、旅行をしているが今年はコロナ禍の影響で行き先に悩む。

結局、4年前に計画していて熊本地震の発生で中止した九州方面の百名城を訪問することにした。九州まで運転したことがないのでまず、距離の近い九州北部に選択を絞る。

佐賀の名護屋城や吉野ケ里は私も興味があるが、日程的な私の都合で母の見守りに行く予定のない日・月曜日しかない。月曜日は休館日となるところが多いので、その制約を考慮して福岡城と大野城に決定した。

宿も妻の好む休暇村もある。

11月の3連休の次の週の11月29日(日)-30日(月)の予定で出かける。

事前準備と勉強は妻に任せて私は11月29日の朝食のおにぎりつくりと車の運転が担当です。
この前日28日(土)は実家にお寺さんのお参りがあり母の手伝いに行っていたのだが、長く座って腰に痛みがあったが、腰痛の万能薬ヒモトレをして出かけることにする。

朝いちでご飯を1合半炊きおにぎりを2個つくり、コーヒーを点ててポットに入れ荷物を積んで5時過ぎに家を出る。

雲一つない快晴の空で、たくさんの星がまたたいている。先日、妻に「冬の星座」の話をしたが、その後勉強したらしくオリオン座を真正面に見つけて喜んでいる。

妻はGotoトラベルの予約をして高速料金も周遊パスで安くなるそうだが、範囲が赤穂ICと門司ICの間でICはその区間内で一度は出入りしなければならない。

山陽赤穂でいったんICを出てもう一度乗り直す。出口を出てしばらく走るとUターンできるスペースがあったので楽ちんです。まちがって高速を下りてしまう人がたくさんいるのでこういう仕掛けもいるのかもしれない。

闇の中を走っていたが、6時半ごろ空が明るくなってくる。この写真の時、車は南を向いており、前方は瀬戸大橋から四国方面ということになります。

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1回目の休憩は、福山SA。時間も7時を過ぎたところなので朝食の時間です。

私の作ったおにぎりですが、ご飯の量が多すぎて無理矢理におにぎりケースに押しこんだものだから全体が固くなってしまった。おにぎり二つだとの量は1と1/4ぐらいがいいのだろう。

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日曜日なので道は空いていて順調に流れて10時過ぎに山口県の美東SAに到着。10時のお茶の時間。それんにしても早くも5時間も運転したことになる。

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それにしても腰の調子も順調なようで、さすがヒモトレの効果おそるべし。

美東SAから1時間弱で関門橋を渡る。この橋を渡るのは初めてです。そういえば家族で下関に旅行したときは、関門トンネルを徒歩で渡ったものでした。自宅を出たときは快晴でしたが、西に向かって進むにつれて曇りになりました。

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大宰府ICを下りて、一般道で大野城へと向かうが、山に入ると一車線の林道となり、12時半過ぎに「県民の森」駐車場に到着する。

大野城は四王寺山という標高410㍍の山の山上にある。

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駐車場にはそこそこの数の車が停まっており、家族連れやグループでのハイキングで親しまれているようだ。
標高はそこそこあるがやはり九州のことで紅葉が盛りである。

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まずは百名城スタンプをゲット。九州のお城では初である。

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係の人に見どころと資料をいただく。「百間石垣」というのが有名なようなのでそこへ行くことにして車で向かう。

しかし、どこをどう違ったか来た道か違う道に出てしまった結局見つからずじまい。
このお城の一番の見どころというのは城をめぐる約6.8㌔の土塁ですが南側と北側の土塁が二重となり(城壁総長は8.4km)となる。城域は東西約1.5キロメートル×南北約3キロメートルの、日本一の大規模な古代城塞である。

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これだけの規模の城ということになると、近世を含めても最大の要塞といってもいいのじゃないだろうか。

時代背景を見ると、天智天皇が白村江(天智2年(663))の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した。大野城はその敗戦からわずか2年後の天智4年(665)日本の防衛のために築いた古代山城である。城郭の建設を担当したのは亡命百済人であったという。また大野城以外にも長門国にも亡命百済人が城を建設したらしい。
天智は、よほど優れた政治家だと思うが、国内では政敵を暴力によって制圧し権力を奪取する(大化の改新)という大胆な権力と暴力の行使者であり、海外との関係においては唐の勢力が増大すると百済と組んで対抗しようとするが、一旦失敗したら退いて唐と新羅に対し和戦両様で対応しようとしたところは現実主義の政治家であったと思う。

このリアリズムは今の日本の政権にも期待したいところだが、期待するほうが無理というものか。

道がよく分からないので大野城の石垣探訪は諦めて、次の目的地、太宰府天満宮に向かう。
大宰府天満宮の駐車場に向かったが渋滞が激しく、13時半ごろ手前の民間のコイン駐車場に停めて歩いて天満宮に向かう。

門前のインフォメーションの女性にマップをもらい歩き方を教えてもらう。

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それにしてもコロナ禍の中、大勢の人出で驚く。

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コロナから早く解放されたいというお願いに来る人が多いのだろうか。

祭神はもちろん言わずと知れた菅原道真である。

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道真は平安時代の人だが、若い頃の記録がないらしいが、菅原家は野見宿禰を家祖とし、葬送を職掌としている土師氏であったが、天応元年(781)に古人が改姓を申し出、菅原姓を称するようになった。先祖は儒教を学び、奈良時代に桓武天皇の侍読(教授)となる。
葬儀を職としていたところから天皇の学問係となるのも不思議だが、よほど頭の良い血筋だったのだろう。そういえば私の知っている菅原姓の人はみんな頭がいい。
平安時代に菅原家は道真という天才を生む。

宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで上り詰めた。しかし謀反を計画したとして(昌泰の変)、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後怨霊と化したと考えられ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。(Wikipedia)

道真は天皇からの重用に対して非常に慎重であったが、余りにも能力が抜群であり、また任務に誠実であったのであろう宇多・醍醐の2代の天皇に仕え大臣という最高位に着く。藤原家が権力を掌握していた時代に図抜けて天皇の信頼を得ることがかえって身に危険を呼び寄せたのであろう。

廻りから讒言を受け、大臣の座を滑り落ち、昌泰4年(901年)太宰府に左遷された。左遷されて2年目に道真は死亡するが、その後、京では異常な事態が発生し、これらはすべて道真の怨念によるのだと言われた。
この京都の北野天満宮や大宰府天満宮もこの怨霊を鎮めるためのものであろう。

醍醐天皇は道真の生前の忠誠を追想され延長元年(923)にもとの官職に戻し、一条天皇の正歴4年(993)には正一位左大臣、更に太政大臣を贈った。
この名誉回復のタイムスパンの長さから、いかに道真の怨霊が原因であると思われる災害が長く続いたということが想像される。

天満宮の隣のお寺(延寿王院)前の撫で牛。ここでも習合の痕跡が見られます。

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境内には巨大なクスノキがたくさんあります。

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本殿への道。赤い欄干の橋を渡っていきます。

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何やら曰くありそうな祠。説明板を見ると、「志賀社」とあり、海神綿津見三柱神の海上安全の神さまをお祭りしている。屋根が入母屋、正面が千鳥破風で和・禅宗・大仏の三様式で構成されており国の重要文化財に指定されている。あたかも美術工芸品のようだという。

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石の鳥居から楼門を望む。

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神社の楼門。実に立派なものです。

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手水。今は水が張られていませんが、巨岩の水盤には亀の像が彫られている。

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本殿前では、コロナ禍の時期とは思えぬ、3密の行列。まるで初詣の様相です。
われわれは、遠慮して人々とは離れたところから参拝。

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おみくじもオレンジ色のものらしい。朱は清めの意味があるので、おみくじを見終わった後は清めということだろうか。

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境内にはクスノキの巨木が多いが、塀の屋根を突き抜けたクスノキには驚いた。

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楼門を出て左に出て九州博物館の方に向かう。庭園があり大きな池がある。
菖蒲池で鉢植えの菖蒲が植えられている。たくさんの種類のショウブの花が楽しめるのだろう。

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さらに進むと大友旅人の歌碑がある。

わが苑に梅の花散る久方の
     天より雪の流れくるかも (万葉集)

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後から調べると、大伴旅人は天智4年に生まれた人で飛鳥時代から奈良時代の人です。

養老5年(721)従三位に、神亀元年(724)聖武天皇の即位に伴って正三位に叙せられる。
神亀5年(728)頃大宰帥として妻・大伴郎女を伴って大宰府に赴任する。60歳を過ぎてからの二度目の九州下向であったが、この任官については、当時権力を握っていた左大臣・長屋王排斥に向けた藤原四兄弟による一種の左遷人事、あるいは、当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された人事の両説がある。大宰府では山上憶良・満誓らとの交流を通じて筑紫歌壇を形成した。(Wikipedia)

とあり、旅人はなんと60歳の高齢で大宰府の長となったのだ。これも道真と同様左遷と見る方が可能性が高いように思う。

またこの歌は、旅人が自邸で開いた「梅花の宴」で詠まれた一首。万葉集には32首収録されているがその序文から元号「令和」の元となった。

エスカレーターに乗って九州博物館(九博)に向かう。

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エレベーターの上にはさらに長いムービングウォークが続く。

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照明の色が変化して目を楽しませてくれる。
博物館の前に公園があるがメタセコイアはすでに色づいて晩秋を迎えている。

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巨大な九博の建物。

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この日は比較的暖かく、気持ちのよいテラスで一服してから博物館に入る。

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検温して、連絡先を記入する。入場料は700円。

エレベーターで3階に上がる。

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3階では祇園山笠の山車の特別展示がされています。3階は特別展示のスペースです。この展示は11月25日から1月11日まで。

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常設展はさらに4階に上がります。
常設は「文化交流展示室」で日本が世界とどのように九州を通じて交流してきたかという歴史が分かるように展示されている。

展示物はレプリカ中心で写真撮影禁止なので面白みは少ない。

ところが展示室を出てから大きな発見があった。天智時代に大野城と共に整備された水城(みずき)の建設模型である。

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水域長さ1.2㌔、基底部幅80㍍、高さ10㍍という巨大な城壁である。これで唐や新羅からの侵入を帽子しようとしたのである。

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大宰府防御の全貌をこの展示で知ることができました。

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展示内容にやや残念な思いをしながら、最後に大きな発見をしたような気持ちになり九博を後にします。
この博物館はどうやら建物の威容を見せつけるのが目的のように見えた。上からのこの光景を見ると、空港の建物そのものです。エスカレーター、ムービングウォーク…。

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博物館としてはこの建築はどうなんだろうか?

駐車場に戻りホテルに向かう。
道路の渋滞は続き、抜け道を探そうとするが結局相当の時間をロスする。妻は3時頃にホテルに着いてゆっくりするつもりだったのに、というがそもそもの行程上不可能な話だと思う。

渋滞を抜けた頃、道路の右手に偶然、水城と遭遇する。丘のように見えるが実は人工の城壁なのである。

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日曜の夕方ということで福岡市内でも渋滞があり、休暇村志賀島には17時15分頃に到着。

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ホテルの駐車場はほぼ満車。でもナンバーを見ると福岡が多く他は近隣県が多い。これもGotoのおかげか、近くのリゾートでゆっくりしようということだろうか。

18時半からの夕食の予約で、その前にお風呂に入る。志賀島唯一の温泉との触れ込みだが、冷泉で1分あたり12㍑の湧出ということで心細いが、入った感じは良く、よく温もりました。

夕食はビュッフェで、地元食材の家庭料理的なものが多い。サザエの身が太く美味。イカソーメンと天ぷらの美味さは言うに及ばす。

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妻が「アラカブ」の煮物を選択した。

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調べてみると、カサゴのようだが、身がホワホワで柔らかい。

飲物は瓶ビールを妻と分けて後は「楢の露」の燗酒を頼む。このお酒は宗像の酒で宗像大社のお神酒。大社のご神木の楢の樹にちなむという。

二の皿。少しずつ取ったがもはや満腹。

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しかし、妻は最後にデザートを食べないと承知しない。

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朝の5時から夕方まで無事に運転でき、美味しい夕食をいただき満足一杯で旅の初日を終えることがきでました。