日々の気づきノートです。

姉妹ブログ「勇気の出る名言集」を始めました。
過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

霊魂

お盆休みを終えて

今年のお盆は母の初盆ということであったが、コロナの5類以降、8月11日の「山の日」が金曜日で連休になったり台風7号の襲来があったりで、いつもの年とは違った感じがした。
全般的には先祖霊に対する慰霊感の空洞化を強く感じた。

母は熱心な伝統主義を引き継いでいたので、お盆が近づくと仏壇のお磨き、お墓参りはいつ行くのか、と問い。姉家族のお盆中の帰宅予定を尋ねたりしていた。
実際に行うのは私たち夫婦が墓と仏壇に参り、親族の会食をする、ということだった。
別に特別なことでもない。

そんなことを私が毎年やっていたが、今年はそんな必要もなくなった。わずかのお参り希望者の受け入れをして、最終的には13日に長女家族を招いて昼食会をした(お盆期間外である)。

実際のお盆期間の14~16日は普通の生活をした。

母が亡くなってから私は一貫して人間の「死」(ひいては「生」)についてずっと考えてきた。その間会う人には必ず、「死」について尋ねるようにしたが、「死」を身近に考えている人に会ったためしはない。

人間の意識は相対的にしか働かない。だから今生きているのだからといって「生」単体で考えることはできない。だから「生」に相対する「死」を考えないと「生」を考えることはできない。

禅宗でいえば「隻手の音声を聞いてこい」という白隠の公案になる。

それほどの当たり前の話なのだが多くの人は「死」に向き合おうとしない。そして突如として余命何ヶ月と聞かされて右往左往する(実際母がそうだったわけだ)。

そんなことになるまいと思って、母の死後ずっと考えてきたわけだ。

お盆期間中も同じことを考えていたが、人が死んでアイデンティティのある霊魂が残るという信憑は得られないが、論理的に残る方に賭けている。



墓参りも娘たちには引き継げないような気がした。私が元気なうちに墓じまいするしかあるまい。

お盆が終わっていよいよ具体的な終活をまとめにかかる。遺産もまとまったので姉の子どもたちとの遺産分与を最終化する。
そして、年末までには私の死後の扱いについて文章化して関係者と共有することにしたい。

このプロセスのうちに自分が日々いかに生きるか、ということも明確になっていくと思う。

安倍氏の国葬と霊魂の行方

いよいよ明日、安倍氏の国葬が東京で行われる。



物々しい警備の様子が報道が報道されているが、先日のエリザベス女王の国葬の様子と比べて何と印象の異なることかと遺憾に思う。

そもそも、今回の国葬に関しては法律上の問題が一切議論されずに強行されることが問題だが、安倍氏の政治に対する国民の評価が定まっていないこと、事件の原因が統一教会の国内での活動と関連していることなどから、疑問が多い。統一教会に利するものである、という意見はもっともだ。

そんなこともあり、世論も賛否二分されているが、反対意見の方が多い。

というようなわけで、明日の国葬には問題が多いのはもちろんだが、私は一人の人間の死に伴う葬儀という意味においても問題が多いと思っている。

日本人の「死」に対する伝統では、身体の死後49日は霊魂はこの世にとどまり、その後しかるべきあの世に行くことになっている。
日本社会では、霊魂はこの世にある遺骨や墓や仏壇や宗教団体の施設内にとどまるものではない、「あの世」に行くとされている。
別の表現では49日まではこの世に死者の穢れが残っているが、それ以降は、また生者だけの穢れのない世界に戻るとされている。

安倍氏の死は7月8日であるので霊魂はとっくにあの世に行っている(はずだ)。

生きているわれわれは、喪が終わると死者は彼岸に行って安んじられたと思っていればいい、というのが日本人の伝統的な死に対する姿勢なのだ。

ところが、今回の国葬はあの世に行って安んじている安倍氏の霊魂を呼び起こしてザワつかせている。

元より、あの世がどんなものであるかについては明確ではない。死ぬのは一方通行で帰ってくることはない。
だが伝統的には霊魂は天国か地獄に行くことになっており天国は7階層になっているという。天国で会いましょうといっても階層の違うところには行き来できないそうだ。
それとは別に地獄もあるとされているが、安倍氏の霊魂がそちらに行っていないとは断言できない。

(話は変わるが)私の父は死の前の危篤の時、意識朦朧としていたが、最後の息を引き取ろうとするとき突如として目を開いた。それまではどろんと濁っていた目が突然輝き天井にあたかも何かの強烈な光を見るがごとき表情をして、最後の息を引き取った。その父の荘厳な姿をまざまざと見た私は断然、あの世が存在することを信じている。父はあの世の光を見たのだ。

安倍氏が最期の瞬間何を見たかは知らないが、誰でもその瞬間に何かを見るはずだ。それで人間の一生は完結する。それでその人の人生は「すべて良し」だと私は思っている。

後の儀式は、残された人々(生者)のためのものである。

今回の国葬もそいう意味合いであると見ればいい。
そういう目で今回の国葬を見ると、いかにこの儀礼が自分勝手で死者に対して粗雑で無礼な儀礼であることが見えるのである。

光岡英稔「身体の聲」その7

すべての人が望む「健康」だが、日本人は世界一の長寿国となったが多くの人が病で医者が通いしている。
われわれはどのような「健康」を目指すべきなのでしょうか。


WHOの「健康」の定義とは、

“健康とは、身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。(p177)

精神的はmental、霊的はspiritualです。現代の日本人で「霊的に完全に良好な動的状態」を維持できている人などはたして存在するのでしょうか。
しかし、西洋的価値観からすれば、人間が霊的な安心がなければその人は健康とは言えないという認識なのです。
神は仏なんてものは、初詣ぐらいしか頭に浮かばないわれわれ日本人は、いかに世界一の長寿であろうと真の人間の健康を謳歌しているとはいえないというのです。

人間が真の主体性を持つためには超越者(神や仏)という霊的な存在を仮定する他に方法はないのです。

“客観の集合には身体や当事者がありません。
 健康という我が身あっての体のはずが、肝心の身体の健康の規範には誰の身体もないわけです。(p179)

有限の集合が無限になるのではなく、無限の存在が分節して有限になるのです。そして個体の人間は有限でありながら無限と直接につながっている、ということを見逃してはなりません。

また、魂魄という言葉がありますが、中国の思想では、魂(sprit)も二つに分かれるという。

魂:体を失っても消滅しない。
魄:体に残って体と共に朽ちる。(p183)

日本には霊魂という言葉がありますが、魂は人間が死ぬと体から離れるが、霊は体が死んで現世に残り得ると考えられています。

これは以前「唯魂論」で書いたとおりです。



唯魂論

魂についてはこれが正しいということは言いきれませんが、まさにひとり一人が自分の身体感で見極めていくしかありません。
これこそ人生の醍醐味とも言うべき楽しみです。

先祖の話 その5

柳田は、在来の日本の文化である先祖崇拝が、仏教と習合したことから本来の意義を失うことの懸念を表明する。

全文読破 柳田国男の先祖の話
石井 正己
三弥井書店
2015-12


“家が永続して先祖の霊が増加して行くと共に、段々に粗末になるかも知れぬ虞れのある祭り方、又は年と共に追善が間遠になって、末には忘れたり思い出さぬようになったりする年忌というものが、もしも仏法の本からの教えでも何でも無く、日本に入って来てのちに在来の慣行を認めて、それと折り合いを付けて斯うきめたものだとしたら、それは遺憾ながら改悪と評してもよいものであった。折角我々の間にはいつ迄も先祖を思慕し、年々欠かさずに子孫が寄り集まって、一定の期間生活を共にするという良い因習があったものを、なまじいに或少数の個人の記念に力を注いだばかりに、却って他の多くのものを粗略にする結果になった。(p90)

つまり、毎年盆と正月に家族が集まって先祖供養をするという良き風習があったのに、仏教の年忌法要のみに限定されるとしたら大きな改悪であるというのです。

“家でも先祖の霊を一人々々、その何十年かの年忌毎に祭るということは、如何にも鄭重なように見えて、其実は行き届かぬことであった。(p92)

先祖祭が仏教の手に渡ってから、形式的には丁寧な対応をしているようであるが、その実は心のこもったものではなくなってしまった、という指摘は確かにあります。法事をする方も招かれる方も、いわゆる形式に流れて真心が失われてしまっているように思います。

“日本人の志としては、たとえ肉体は朽ちて跡なくなってしまうとも、なお此国土との縁は断たず、毎年日を定めて子孫の家に行き通い、幼い者の段々に世に出て働く様子を見たいと思って居たろうのに、最後に成仏であり、出てくるのは心得ちがいでもあるかの如く、頻りに遠い処へ送り付けようとする態度を僧たちが示したのは、余りにも一つの民族の感情に反した話であった。それだから、又言葉は何となって居ろうとも、其趣旨はまだ、ちっとも徹底して居ないのである。(p102)

やはり、日本人の先祖を敬う精神と仏教の教義とは本来は折り合いがつきにくかったのでしょう。霊魂の話には「無記」で答えたブッダと先祖の霊魂こそ命であった日本人の精神ではあまりにもかけ離れている。
一方、仏教側は水と油の考え方を無理やりに調和させようとするが、それは不可能なことなのです。そのうち、このような根本的な問題すら忘れ去られて霊魂の追悼が仏教の本業のごとくになってしまったのは実に残念なことです。

先祖の話 その1

親の世代が高齢を迎えて、いろいろと葬儀や法事に呼び出されることが多くなりました。
いつも仏教と法事についてモヤモヤした気分にさせられるのですが、日本人の慰霊儀式についてどこかで柳田国男の研究があることを知り(それが何であったかについては今となっては思い出すことができません)読んでみることにしました。
必ずしも決定版というわけではありませんが、よくまとまっており大変参考になりました。
日本の法事の習慣というのは、民族的なものであって、それがある時期からお寺さんの仕事になったのですね。

全文読破 柳田国男の先祖の話
石井 正己
三弥井書店
2015-12




“人が平静に物を考え得るようになるまでには、なお何年かの月日を待たなけばならぬことは止むを得ないであろう。しかし愈々是から考えてみようという時になって、もうそのものを考える材料ともいうべきものが乏しくなって居たらどうであろうか。家の問題は自分の見るところ、死後の計画と関聯し、又霊魂の観念とも深い交接をもって居て、国毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ悪しかれ多数の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなって行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於いて、どうなるのかこの人たちの心の願いであるか。これを決する為にもまず若干の事実を知って居なければならぬ。明治以来の公人はその準備作業を煩わしがって、努めてこの大きな問題を考えまいとして居たのである。文化の如何なる段階に在るを問わず、凡そ是くらい空漠不徹底な独断を以て、未来に対処して居た国民は珍しいと謂ってよい。斯ういう時代が暫らくでも続くならば、常識の世界には記録の証拠などは無いから、忽ちにして大きな忘却が始まり、以前はどうだったかを知る途が絶えて行くのである。(p9-10)

柳田国男はこの本を太平洋戦争の末期に書き、戦後すぐに出版されるが、この序を読むと、日本文化の根幹ともいうべき霊魂の問題を考えようとしない日本人に対する柳田の焦りというものを感じさせる。
実際この懸念は、戦後さらに加速し今や、われわれ日本人の伝統としてきた習慣は形骸化し、無思考にその習慣を繰り返すのみになっている。
これは先祖供養のみにとどまらず、われわれの生活全般に及んでいる。
戦時中に、このような柳田の懸念とそれを案じて文章化してくれたことに感謝しなければなりません。
ごあいさつ
日々の生活の気づきから人生の成熟を目指しています。

幸せ職場の考え方は、
幸せ職場
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「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14
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