今年のお盆は母の初盆ということであったが、コロナの5類以降、8月11日の「山の日」が金曜日で連休になったり台風7号の襲来があったりで、いつもの年とは違った感じがした。
全般的には先祖霊に対する慰霊感の空洞化を強く感じた。
母は熱心な伝統主義を引き継いでいたので、お盆が近づくと仏壇のお磨き、お墓参りはいつ行くのか、と問い。姉家族のお盆中の帰宅予定を尋ねたりしていた。
実際に行うのは私たち夫婦が墓と仏壇に参り、親族の会食をする、ということだった。
別に特別なことでもない。
そんなことを私が毎年やっていたが、今年はそんな必要もなくなった。わずかのお参り希望者の受け入れをして、最終的には13日に長女家族を招いて昼食会をした(お盆期間外である)。
実際のお盆期間の14~16日は普通の生活をした。
母が亡くなってから私は一貫して人間の「死」(ひいては「生」)についてずっと考えてきた。その間会う人には必ず、「死」について尋ねるようにしたが、「死」を身近に考えている人に会ったためしはない。
人間の意識は相対的にしか働かない。だから今生きているのだからといって「生」単体で考えることはできない。だから「生」に相対する「死」を考えないと「生」を考えることはできない。
禅宗でいえば「隻手の音声を聞いてこい」という白隠の公案になる。
それほどの当たり前の話なのだが多くの人は「死」に向き合おうとしない。そして突如として余命何ヶ月と聞かされて右往左往する(実際母がそうだったわけだ)。
そんなことになるまいと思って、母の死後ずっと考えてきたわけだ。
お盆期間中も同じことを考えていたが、人が死んでアイデンティティのある霊魂が残るという信憑は得られないが、論理的に残る方に賭けている。
墓参りも娘たちには引き継げないような気がした。私が元気なうちに墓じまいするしかあるまい。
お盆が終わっていよいよ具体的な終活をまとめにかかる。遺産もまとまったので姉の子どもたちとの遺産分与を最終化する。
そして、年末までには私の死後の扱いについて文章化して関係者と共有することにしたい。
このプロセスのうちに自分が日々いかに生きるか、ということも明確になっていくと思う。