グローバリズムの時代になってから、というわけではないが、X理論的な経営が増えたように思う。
私は一貫してY理論による経営が組織全体として結果的に高いパフォーマンスを生むと信じてきた。
これは私の師匠であるNさんから私が引き継いだものだ。
Y理論が忘れられて、X理論に基づく組織統制の考え方が日本企業に広がり、ブラック企業と呼ばれるような会社が多く出てきた。
もはやY理論は復活不能かと思っていたが、アメリカではX理論が行き詰ってY理論に救いを求めるような方向が出てきたようだ。
エイミー・C・エドモンドソン「恐れのない組織」が最近注目を集めているという。
今日の組織にとって、心理的安全性は「あったほうがいいもの」ではない。…心理的安全性は才能を引き出し、価値を創造するためになくてはならないものだというのが、私の考えだ。優秀な人材を雇うだけでは、もはや十分とは言えない。職場は、人々が才能を活かすことができるし、積極的に活かそうと思う。そんな場でなければならないのだ。ナレッジ(知識)が必要なあらゆる組織、とりわけ、多様な専門知識を統合する必要のある組織において、心理的安全性は成功の必須条件である。(p51)
これは「統制型経営」の見直し宣言と言っていいのではなかろうか。
気づいている人はあまりいないが、不安によるモチベーションアップは、目標を達成しつつあると錯覚させるうえで絶大な効果を発揮する。だが、知識集約型の職場に創造力、適切なプロセス、必要な情熱を確実にもたらし、難しい目標を達成するうえでの効果はない。(p86)
X理論による経営は短期的には効果を発揮する場合がある。しかし、長期的には良い結果は出ない。
それよります、不幸な人と量産する。早く見直したほうがいい。
東電の福島原発事故が例に出される。
どんなに詳しく書いても、この報告書では――とりわけ世界の人々に対して――十分に伝えくれないことがある。それは、この大惨事の背後にある、過失を促したマインドセットである。これが「日本人であればこそ起きた」大惨事であったことを、われわれは重く受けとめ、認めなければならない。根本原因は、日本文化に深く染みついた慣習――すなわち、盲目的服従、権威に異を唱えたがらないこと、「計画を何が何でも実行しようとする姿勢」、集団主義、閉鎖性――のなかにあるのだ。(「福島原発事故国会事故調」報告書、p125)
大きな組織事故の裏には必ずと言っていいほど、X理論を信奉する組織風土があるとみていい。
フィアレスな職場を一大目標に掲げる組織がしだいに増えてきている。そのような組織のリーダーは、ナレッジ(知識)が価値の重要な源泉であるなら、心理的安全性を生み出すことが重大な使命であることに気づいている。(p134)
なるほどと思うが、ちょっとネガティブな意味合いを感じる。つまり、これはパフォーマンスを上げるためにあえてY理論を採用するという考え方になっている。
師匠のNさんは「人間観」としてY理論を重要視されていた。組織内の人間観がY理論的であることが本当のあり方ではある。
ダリオ(ブリッジウォーター・アソシエイツ創業者)は次のように考えている。「現代社会の失敗恐怖症は深刻だ」、なぜなら、正解を探すことを小学校時代の初めに教えられてしまい、革新的・自立的思考へつながる道として失敗から学ぶことを身につけないからだ、と。また、彼は早くから次のように述べている。「誰もがミスをするし欠点もあること、それらにどう対処するかで決定的な違いが生じることを学んだ」。だからブリッジウォーターでは、「失敗するのは構わないが、失敗に気づき、分析し、そこから学ばないのは容認されない」のである。(p145)
アメリカでのこんな状況だから日本は言うに及ばずで、今さらという気がする。小学校から統制的な教育が中心となっているからとても多様性を生かすような教育は望むべくもない。
しかし、遅ればせながらも気がついて修正することができれば幾分ましであろう。
ダリオは「プリンシプルズ(原則)」のなかで、率直さと、透明性と、失敗から学ぶこと――心理的安定性の三点セット――が、自分の人生と会社の両方にとって基盤になっていると、はっきり述べている。(p145)
「率直さと、透明性と、失敗から学ぶこと」これへ実に重要な指摘である。
ダリオはこう助言する。「議論に『勝とう』としてはいけない。自分の間違いに気づくのは学んでいる証拠であり、それは正しくあることよりはるかに価値が高い」重要なのは、些末なことにあまり時間をかけず、考えの不一致を解決するタイミングを見きわめることだ。(p146)
「ディベート」が重視される西欧社会。また、その形だけを有難がって教育に導入した日本。その結果「論破!」なんて程度の低い論客を高く評価する誤りを犯し続けている。
そろそろ気づいてもよかろうが。
恐れるべきは、死ではない。
充実した生き方ができていないことこそ、恐れるべきなのだ。(マルクス・アウレリウス、p164)
古代ローマの賢帝マルクス・アウレリウスはストア派の哲学者としても位置づけられている。ストア派の哲学として「死」を正視していたのであろう。
正しく死を見ることによってのみ、充実した生き方ができる。
死を見ないといつまでも「気紛らせ」の人生を送り続けていなければならない。