日々の気づきノートです。

姉妹ブログ「勇気の出る名言集」を始めました。
過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

魂はすべて不死なるものである

1週間前の6月8日の「勇気の名言集」に取り上げた本はプラトンの「パイドロス」だった。



20年ほど前に読んだ本からの抜き書きだが、あらためて読んでみると新たな気づきがあって面白い。
この話は「恋愛」に関する話題を取り扱っているが、その中での「魂」についての議論に注目した。

一般に古代ギリシヤの宗教は多神教を言われているが、プラトンは神の上に「魂」を置いていたように見える。

魂はすべて不死なるものである。なぜならば、つねに動いてやまぬものは、不死なるものであるから。しかるに、他のものを動かしながらも、また他のものによって動かされるところのものは、動くのをやめることがあり、ひいてはそのとき、生きることをやめる。したがって、ただ自己自身を動かすもののみが、自己自身を見すてることがないから、いかなるときにもけっして動くのをやめない。それはまた、他のおよそ動かされるものにとって、動の源泉となり、始原となるものである。

ここで、われわれ人間のような「生き物」と「魂」の関係がはっきり示されている。
「魂」とは常に動く「不生不死」な存在である。
一方の他から動かされているものは動くのをやめる(死ぬ)。
われわれは親鸞の言う「他力」によって動かされているのだ。
われわれを動かしているものは永遠に動きを止めることはない。

ところで始原とは、生じることのないものである。なぜならば、すべて生じるものは、必然的に始原から生じなければならないが、しかし始原そのものは、他の何ものからも生じはしないからである。じじつ、もし始原があるものから生じるとするならば、始原から生じることにはならないであろう。
 そして、始原とは生じることのないものであるとすると、他方それはまた、必然的に、滅びるということのないものである。なぜならば、始原が滅びるようなことがもしあったとしたら、いやしくもすべてのものは始原から生じなければならない以上、始原そのものもあるものから生じないであろうし、また他のものが始原から生じるということもなくなるであろう。

盤珪禅師の言うように「始原」は不生不死のものであるが、不生のものであるから「不死」と言う必要もないのだ。

自分で自分を動かすものは、動の始原であり、それは滅びることもありえないし、生じることもありえないようなものなのである。もしそうでないとしたら、宇宙の全体、すべての生成は、かならずや崩壊して動きを停止し、そして二度とふたたび、生じてくるために最初の動きを与えてくれるものを、持たないであろう。

同じことを別の言い方で繰り返す。プラトンの深切である。

さて、自己自身によって動かされるものは不死なるものであるということが、すっかり明らかになったいま、ひとは、この<自己自身によって動かされる>ということこそまさに、魂のもつ本来のあり方であり、その本質を喝破したものだと言うことに、なんのためらいも感じないであろう。なぜならば、すべて外から動かされる物体は、魂の本性がちょうどこのようなものであることを意味するからである。しかるに、もしこれがこのとおりのものであって、<自分自身を動かすもの>というのが、すなわち魂にほかならないとすれば、魂は必然的に、不生不死のものということになるであろう。

これも繰り返しになる。

いかなる魂も、神の行進に随行することができて、真実なる存在のうちの何かを観得したならば、つぎの回遊のときまで禍いを免れてあることを。そしてもし、その回遊の機会ごとに、つねにそうすることができるならば、いつまでも損なわれずにいることを。

ここで「魂」と「神」の関係が明かされる。人間が死んでも魂は不死のまま存在し「神(ギリシアの神はアイデンティティを持つ)」に随行している。
その間(死んでいる間)、魂はニュートラルな状態で禍から免れていることができる。だから死こそ安穏なことはないのだ。

このようなメカニズムを身体化するというのが、プラトンの哲学であったのではなかろうか。
そう考えると親鸞や盤珪も同じような思想の流れの中でモノゴトを考えていたように思う。

熊沢蕃山 吾本不来

私のこのブログの姉妹編「勇気の出る名言集」では、現在20年前に私が読書中に気づいた名言を取り上げている。
20年前のことなので、内容そのものを忘れてしまっているのだが、このようにブログにしている内に再読してビックリすることもある。

昨日の江戸時代初期の陽明学者である熊沢蕃山の「集義和書」の中に驚くべき記述を発見した。
熊沢蕃山といえば近江聖人、中江藤樹の一番弟子であった。
蕃山の主著である「集義和書」の中でこんなことを言っている。

世の中の人は形体のうえから見解を立てるので、生死を二つに考える。それで精神が天に帰るという説がある。「吾本不来」(われもとふらい:吾は本来不変であるから帰るところはない)、天と吾とは一つである。どうして帰るということがあろう。わが心の霊明な働きがすなわち天地万物を造化する主宰であり、また鬼神の吉凶災祥をなす精霊である。天地鬼神の精霊と主宰がなければ、わが心の霊明もなかろう。いま、死体となった人は、精霊が体から離散するから、死体となった者の天地万物はどこにあろうか。だから君子が天地万物の大を語れば、天下にこれをのせ切れず、小を語れば天下にここれを破ることもできない。



蕃山は、「天と吾とは一つである。どうして帰るということがあろう。わが心の霊明な働きがすなわち天地万物を造化する主宰であり、また鬼神の吉凶災祥をなす精霊である。天地鬼神の精霊と主宰がなければ、わが心の霊明もなかろう。」とまで断言している。

「吾本不来」の言葉を聞いて思い出すので盤珪の「不生」である。どちらも霊魂の不滅を表現した言葉である。

盤珪は以下のように言う。

不生にして霊明なが、仏心に極まったといふ事を決定すれば、千万人乃至天下の人が寄集て、口を揃へて、烏を鷺と云ひくらますとも、烏は染めずして黒く、鷺は染めずして白き物といふことは、不断見付けて能く知って居ますれば、いか程人がいひ暗まさうとするとも、なかなか云ひくらまさぬやうに慥かになりまする。先ずそのやうに不生にして霊明なものが仏心、仏心は不生にして一切事が調ふといふことさへ、人々慥かに決定して知って居れば、最早人には教壊(きょうえ)せられず、云ひくらまされず、人のまどはしを受けぬやうに成りますわいの。そのごとく成った人を、決定した人というて、則ち今日不生の人で、未来永劫の活如来といふものでござる。

盤珪の「不生」と蕃山の「不来」、同じことを言っている。

蕃山は元和5年(1619)生まれ元禄4年(1691)に死んでいる。
一方の盤珪は、元和8年(1622)生まれで元禄6年(1693)に亡くなっているので、ほぼ同時代の人である。

儒教は孔子が「子は怪力乱神を語らず」だったので魂について言及することは少ないように思う。しかし、蕃山があえてここまで霊魂についての見解を表明していることは注目に値すると思う。

私の知るところでは蕃山が「不来」についてさらに詳しく書いたものを知らないが今後の課題にしたいと思っている。

矢作直樹「人は死なない」

矢作直樹さんの本は、今年の夏によく読んだ。











その後、しばらくご無沙汰していたが、矢作さんの最初の著書を読んでみると気づくことが多かったので書き留めておきます。


2011年9月初版で、この時矢作さんは東大病院の医師で教授だった頃の本です。
最近の本と重複する内容も多いが矢作さんの人生について一番詳しく書かれています。

第1章「生と死の交差点」では、矢作さんの幼いころから医師としての人生が振替られます。小さい頃に交通事故に遭い死を身近に感じるようになった経緯が語られる。また、医者となり患者の死が一様でないことに気づき、人の魂が死なないと思うようになった興味深い事例が語られる。

第2章「神は在るか」では、科学と宗教、世界の宗教、生命の神秘について考察されるが決して解き明かされることのない神秘について、矢作さんとしての一応の答えを導いている。大きなテーマにしては簡潔な章だが、今までこういうことを考えたことのない読者にとっては有用だろう。

第3章「非日常的な現象」では、人間の生死に関する重要な情報が示され考察される。中でも不世出の超人登山家メスナーの経験は興味深かった。

メスナーは人類最初に8千メートル峰の無酸素登頂に成功し、次々と14座の8千メートルを完登した。矢作さんが実際にメスナーを間近で見たことがあったそうだが、決して筋肉隆々として身体ではなく、最小限の筋肉の人であったことを知る。

メスナーがなぜこのような過酷な登山に打ち込んだかと聞かれたメスナーは、

山を征服したかったのでも、登れることを証明したかったのでもなく、ただひたすら自分を知りたかったのです。裸の肉体でもって死の地帯でどこまで命の可能性を拡げられるかを知りたかったのです。(p94-95)

と答えている。メスナーは求道者だったのですね。

また彼は、人間存在について以下のように語っています。

メスナーは常々「スピリット(霊魂)、マインド(心)、ボディ(体)の調和こそが人間本来の姿である」と言っています。彼の言によれば、このスピリット、マインド、ボディの調和が乱れたときの病をきたすということになります。(p103)

人間を心身としてのみ位置づけるのではなく、「魂」が命を支えている、ということを喝破しているのです。

この章で、矢作さんが学生時代に北アルプスの登山中に2度大きな遭難したときの経験談と登山を止めた理由が書かれていますが、これもスピリチュアルな経緯であったことが示されています。
ここの経験は他の本でも触れられていますが、この本が一番詳しく、手に汗握るような内容です。

この章では、ご両親の死についても語られていますが、特にお母さんはアパートでの孤独死という最期を迎えるが、お母さんの従容として死を受け入れた姿に矢作さんは感銘を受ける。

今思い返すと、母の晩年はとても平穏で満ち足りた様子でした。「立って半畳、寝て一畳」という言葉があるけれど、母はまったくといっていいほど物欲に無縁の日々を送っていた。私はそうした母の生活を見るにつけ、人が満ち足りた生活をするのに余分な「モノ」は必要ないのだということを、本当に理解しました。恥ずかしながら私はそれまで、いつかは自分の住居が欲しい、若干の蓄えもあった方がいい、といったささやかながらもつまらない欲を持っていました。
 また、独居であることから、老後についても多少の心配をしていました。母のように急逝できればいいけれど、病気や怪我で不自由な状態のまま生き延びたりすると困ったことになるな、などと思っていました。しかし、母の最期に接したことによって、仮に動けないなって孤独死したとしてもどういうことはない、なるようになる、と考えることができるようになりました。(p140-141)

また矢作さんは、降霊によりお母さんと再会し、お母さんが幸せな晩年を送ったことを知る。お母さんの死はわれわれにも最晩年の生き方を教えてくれるように思った。

第4章「「霊」について研究した人々」は近代以降のスピリチャリズムの経緯を説いている。膨大な書物を引用されているが、矢作さんがすべて読んでおられるようで驚く。ほとんどが最近では入手困難と思われるものが多い中、実によく研究されているようだ。

注目するのは西洋ではそのような研究成果の一部が実際の医療現場でも活用されているということだ。日本の病院で「魂」が議論されるようなことはなく、科学(化学)実験が行われている病院の中では考えられないことだ。
そんな日本の病院の中では矢作さんのような考え方の人は異端であったと思うが、そういう人が一人でもいてくれて、このような本にしてくれたのはありがたい。

第5章「人は死なない」では矢作さんが到達した境地が語られる。

人の一生は、表面的には寿命の長短や、それぞれが人生の中で負う荷物の大小しか見えないので、見かけ上不公平、理不尽に思えることは多々あります。…けれども、我々の人生の旅は死後も続く、摂理の意思は悠久の生の中で折り合いがつくように働いている、と考えれば現世での苦しみや悲しみが多少なりとも癒されるのではないでしょうか。いや、そのように考えないと、矛盾に満ちたようにもみえるこの人生を理解できるものではありません。
 人生における様々な失敗や挫折、病気や怪我など自分の身に起こる災厄とは、摂理が個々の人間にそれぞれが自身で責任を負って大切な何かを学ぶために与えた試練なのではないかと私は考えるのです。(p201-202)

「死後の生」があるのかないのかは永遠の謎ではあるが、これだけ深刻な時代を迎えて、何とか一日いちにち生き延びていくしかない人生を生きるわれわれは、「死後の生」があるという前提を持ったほうが有意義な人生を送ることができることは明らかだと思った。

賜いし霊

最近、矢作直樹さんの本を重点的に読んでいる。
最近、読み終わった「お別れの作法」からの気づきを書き留めておきます。

「あの世」と「この世」をつなぐ お別れの作法
矢作 直樹
ダイヤモンド社
2013-03-01


 私が本書で使用する「魂」という言葉も、言霊的には「賜いし霊(火:ひ)」、つまり「たましひ」であるとも言われます。
 言霊=言葉は、空間から空間へと伝播する「音のエネルギー」ですが、言葉は同時に言葉の持つ意味で影響を与える「意識エネルギー」であり、さらに空間を位置づける「場のエネルギー」です。
 だから私たちは、言葉を使う際に吟味して使うべきなのです。(p163)

生命の根源が「魂」とすれば、われわれ個体の命は魂から賜った「分けみ霊」である。
その分けみ霊が発する言葉にも霊(元は魂から出た)のエネルギーに起動されたものだ。だから日本では古くから言葉のことを言霊と呼んだ。
エネルギーは波動でもあるからには媒体が必要であるが、それこそが理論物理学でいう「場」である。
さらに言葉には意味があるがこれは人間の意識の働きである。意識はエントロピーを下げる作用である。

これを図にすると以下のようになります。

言霊.pptx_page-0001

このことを知って言葉を使うことができれば、常に慎重になるどのような場面でも時機を得て調和をもたらすに違いありません。

われわれ人間は、無限の最高善たる魂により言葉を使って毎日生活しているのである。こんなありがたいことが他にあろうはずがない。

魂の個性は残る!?

先日の「魂は不滅である」の記事の中で、矢作直樹さんが霊には個性があり、人間が死んでも残るということを言っておられると書きました。



魂→霊→人間の関係で霊が個性として死後も存在するということを言っておられます。これは矢作さんの実体験に基づく結論のようです。

矢作さんの本の記述を確認しましたので引用しておきます。

このように姿形がどうであれ、エネルギーの質(個性)で人を認識できるのです。ですから、あなたは20代の姿だろうと、80代の姿だろうと、はたまた変装して男性の格好をしていようと、あなたはあなたなのです。それだけ、魂は一つひとつ個性を持っています。それに自信を持ってください。しかし、魂はエネルギーなので、一つであり全体でもあります。つまり、魂は究極的には神といわれる存在につながっているので、そういった意味では一つです。しかし、そこから一粒のしずくとして存在しているのが個々の私たちなのです。海にたとえることもできます。大きな海全体が神で、無数の波が私たちです。
あの世に行くと、すぐ一つの魂(ワンネス)に戻ってしまうという人もいますが、一人ひとりの個性は残るのです。(矢作直樹「「死」が怖くなくなる50の神思考」,p140)

「死」が怖くなくなる50の神思考
矢作 直樹
ワニブックス
2020-03-14


これは立証不可能な仮説ではあるのですが、矢作さんの確信に満ちた書きぶりはいかにも説得力があります。

こういう場合この仮説にどういう態度を取るかということについて私の考えは、それぞれの仮説に対して、その結果を比較し自分が得になるような仮説を採用することにしています。

まず、【個性が残らない】仮説。この仮説は私の母を含めた現代の日本人のほとんど大多数が採用しているように見えます。しかし、この仮説はややもすると生きている内の行動(業)がすべて空しくなるという考えにつながり、自分の人生が無意味だという考えに結びつき野放図な生き方につながる怖れがあります。野放図な人生を送った人が、死んだらやっぱり残った、ということになると取り返しがつきません。

一方の【個性が残る】仮説。こちらを採用すると自分の人生が無意味だということにはなりません。(個性が)残らなくても何も損なことはありません。残ったら「やっぱり残った」と感動すればいいし、死ぬ時に答えを知ることができると思えば、人生の最期まで楽しみです。

トータルに考えてやっぱり(霊に)「個性が残る」説を採用する方が絶対的にお得です。

こんな議論を踏まえて、もう一度「魂と個人」の問題に戻ります。
個人が「波」で魂が「海」とすると波のありようで海も何らかの変化を受ける。つまり波と海は結局は同体なので波自身にも影響が直ちに返ってくるのです。

そうすると、個人が(全体の)魂のために良い行動をすると自分自身にもよいのは明らかです。
個人を全体としてつながったものであるということに気づけばこんな簡単なお話はありません。
それなのに、ほとんどの人が自分は全体とつながっていないという仮説を「信仰」しているのです。
本当に危ないことです。
ごあいさつ
日々の生活の気づきから人生の成熟を目指しています。

幸せ職場の考え方は、
幸せ職場
をご覧ください。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14
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