1週間前の6月8日の「勇気の名言集」に取り上げた本はプラトンの「パイドロス」だった。
20年ほど前に読んだ本からの抜き書きだが、あらためて読んでみると新たな気づきがあって面白い。
この話は「恋愛」に関する話題を取り扱っているが、その中での「魂」についての議論に注目した。
一般に古代ギリシヤの宗教は多神教を言われているが、プラトンは神の上に「魂」を置いていたように見える。
魂はすべて不死なるものである。なぜならば、つねに動いてやまぬものは、不死なるものであるから。しかるに、他のものを動かしながらも、また他のものによって動かされるところのものは、動くのをやめることがあり、ひいてはそのとき、生きることをやめる。したがって、ただ自己自身を動かすもののみが、自己自身を見すてることがないから、いかなるときにもけっして動くのをやめない。それはまた、他のおよそ動かされるものにとって、動の源泉となり、始原となるものである。
ここで、われわれ人間のような「生き物」と「魂」の関係がはっきり示されている。
「魂」とは常に動く「不生不死」な存在である。
一方の他から動かされているものは動くのをやめる(死ぬ)。
われわれは親鸞の言う「他力」によって動かされているのだ。
われわれを動かしているものは永遠に動きを止めることはない。
ところで始原とは、生じることのないものである。なぜならば、すべて生じるものは、必然的に始原から生じなければならないが、しかし始原そのものは、他の何ものからも生じはしないからである。じじつ、もし始原があるものから生じるとするならば、始原から生じることにはならないであろう。
そして、始原とは生じることのないものであるとすると、他方それはまた、必然的に、滅びるということのないものである。なぜならば、始原が滅びるようなことがもしあったとしたら、いやしくもすべてのものは始原から生じなければならない以上、始原そのものもあるものから生じないであろうし、また他のものが始原から生じるということもなくなるであろう。
盤珪禅師の言うように「始原」は不生不死のものであるが、不生のものであるから「不死」と言う必要もないのだ。
自分で自分を動かすものは、動の始原であり、それは滅びることもありえないし、生じることもありえないようなものなのである。もしそうでないとしたら、宇宙の全体、すべての生成は、かならずや崩壊して動きを停止し、そして二度とふたたび、生じてくるために最初の動きを与えてくれるものを、持たないであろう。
同じことを別の言い方で繰り返す。プラトンの深切である。
さて、自己自身によって動かされるものは不死なるものであるということが、すっかり明らかになったいま、ひとは、この<自己自身によって動かされる>ということこそまさに、魂のもつ本来のあり方であり、その本質を喝破したものだと言うことに、なんのためらいも感じないであろう。なぜならば、すべて外から動かされる物体は、魂の本性がちょうどこのようなものであることを意味するからである。しかるに、もしこれがこのとおりのものであって、<自分自身を動かすもの>というのが、すなわち魂にほかならないとすれば、魂は必然的に、不生不死のものということになるであろう。
これも繰り返しになる。
いかなる魂も、神の行進に随行することができて、真実なる存在のうちの何かを観得したならば、つぎの回遊のときまで禍いを免れてあることを。そしてもし、その回遊の機会ごとに、つねにそうすることができるならば、いつまでも損なわれずにいることを。
ここで「魂」と「神」の関係が明かされる。人間が死んでも魂は不死のまま存在し「神(ギリシアの神はアイデンティティを持つ)」に随行している。
その間(死んでいる間)、魂はニュートラルな状態で禍から免れていることができる。だから死こそ安穏なことはないのだ。
このようなメカニズムを身体化するというのが、プラトンの哲学であったのではなかろうか。
そう考えると親鸞や盤珪も同じような思想の流れの中でモノゴトを考えていたように思う。