日々の気づきノートです。

姉妹ブログ「勇気の出る名言集」を始めました。
過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

個性

ナンシー関「ナンシー関リターンズ」その3完

今、ナンシー関さんのコラムを読むと、本当にすごい勇気があった人だと思う。
今もしこんなことを書いたらSNSで炎上続きでちょっと怖い。
こんなことを書いてもスルーされていた時代がなつかしい。

超傑作選 ナンシー関 リターンズ
ナンシー関
世界文化社
2022-07-01


ワイドショーを中心とする結婚報道番組は「めでたいの無礼講」とでも言うべき乱雑さである。おめでたければ何でもあり、めでたいんだからしょうがねえだろうというオラオラ状態。「全国民のよろこび」という錦の御旗のもとに、大きくカン違いした「報道の義務」を遂行せんと、洗足の商店街しらみつぶしで雅子さんの足のサイズまで調べあげる。…
 ワイドショーや特別番組に雁首揃えてならんでいる司会者やコメンテーターは安心しきって弛緩した顔をしている。「おめでとう」しか許されないところに「おめでとう」しか言うつもりのない人がいるのだ。そこは絶対安全地帯である。そんなしたり顔されたんじゃなあ、としらけてしまうのが人情と思いきや、テレビは自分たちと同じ場所にいる国民がこんなにいっぱい、ということを喧伝する…
「おめでたい」は全てをOKにする万能のフィルターではない。おめでたければ何でもありはもちろん間違いだ、でも見てるうちに「こいつら本当に腹の底からそうとしか思ってないかもしれない」と思えてくる。…(「御成婚報道の「オラオラ状態」p180)

前皇太子と雅子さんの成婚後の報道ぶりについてだ。
私は知らないが現上皇ご夫妻のご成婚の際も同じような調子だったらしい。
何十年経っても日本のメディアは変わらない。
しかし、メディアがこのような行動を取るのは、日本の国民がこのようなメディアの行動を喜ぶを信じて疑わないという結果だろう。
かくして、日本国民も喜んだのである。
ところが、実際に結婚して生活が始まると、2回とも同じような苦難が待ち受けていたことが実証されている。
このような結果が待ち受けていることを知っていたかのようなナンシーの慧眼はいったいどこから来ていたのだろうか。

2人(山田邦子と武田鉄矢)に共通する、私が特に嫌に思う点は、芸能界にどのように居座るかで生きている点だ。わかりやすく云うと、自分は誰と仲が良いとか、こないだ誰と飲みに行ってどうこうとか、そういうことがアイデンティティになっているということである。(「好感度の怪。」p185)

ナンシーに言われないと分からないかもしれないが、きっとそうだったのだろう。
言われてみれば確かにお二人には似たアイデンティティを感じる。
しかし、それだけでお二人とも現在まで芸能界で健在なのだろうか。その後の成長なり変化があったかどうか、ナンシーに検証してほしいが代る人がいないので誰も言ってくれない。

好きな人の顔だからといってきれいに描いたり、嫌いだからといって汚く描いたりしてはいけないのである。冷静に「似せる」ことを目指す。これが私のポリシーである。
 しかし、目鼻立ちがどうであるということ以前に、もうその人が漂わせている「感じ」は「似せる」ために要素として何とか画面に織り込みたいのであるが、これが難しい。(「泉ピン子のイヤな感じを描く」p192)

似顔絵に対する素晴らしいポリシーである。
そのポリシーが人の「品格」を見事に浮かび上がらせているのだと思う。
この人の慧眼には改めて感心する。

道徳や社会規範を訴えるという「正義」の威を借りれば何でも出来る。前田吟を飛ばせることなど朝メシ前ということなのだ。札束で横面をはたくよりも「正義」で責めたほうが強い。正義という錦の御旗を持った公共広告機構と政府広告がその気になったら怖いぞ。「高倉健、自然保護のためと説得されてケツを出す」とかな。「おそるべし「公共広告機構」と「政府広報」p215)

資本主義の価値観は「お金」だけだが、国家の価値観は表向き「正義」であり、社会全体とすれば「正義」に勝てるものは何もあるまい。
そのおかげで国家が世界戦争を起こし多くの人を殺し都市を破壊しても誰も責任を取らずに済む。

「台湾ってのは女のコが行っても楽しいのかねえ」「わたしも台湾は4回ぐらい行ってるんだけど、男の場合は空港からいい所にバスでそのまま連れて行かれるんだな」と、台湾旅行の王道を、臆することなく心底楽しそうにしゃべるおじさん(タクシー運転手)を見ていると、私の台湾旅行は何だったのかという気さえした。
 台湾はおやじ天国だ。(「おやじのパラダイス台湾」p269)

ところがその後、台湾は民主化に成功し、人権意識でも経済的にも日本をはるかに追い越してしまった。
置いてきぼりの日本は未だに見えない封建制の元、奴隷(社畜)労働、売春(パパ活)公認の社会を維持している。

人間、考えてみれば結構なことをする時だってわりと淡々としているものである。ドラマや映画の過剰なサービスに慣らされて、一般人まで社会生活を劇的なものと勘違いしかけている今日、「真夜中の虹」によって反省させられるのもいいかもしれない。毎日の生活を、松村雄基を気取ってドタバタ生きている暑苦しい人というのは不思議に実在したりするものだが、そんな人にはぜひ見せたい。(「「真夜中の虹」を見て劇的な日常を反省しよう」p272)

珍しく評価したドラマらしい。
残念ながら全くドラマを見ることがないので何ともいいよういがないが、一度しかない人生ドタバタするのは見苦しいし、自分自身にとっても得るところがない。

ナンシー関「ナンシー関リターンズ」その2

ナンシー関のコラムを読んでいると同調圧力・忖度ゼロだ。天下無双である。実に痛快。
そういえば、同じコラムニストで同調圧力・忖度ゼロの小田嶋隆さんがいたが、こちらも他界された。
今、こうして歯に衣着せぬ発言をしてくれる人が居なくなったことは本当に残念だ。

超傑作選 ナンシー関 リターンズ
ナンシー関
世界文化社
2022-07-01


一番の「才能」である「現役総理大臣の息子」を純粋に発揮できたのがCMオンエア迄のあの期間なのである。混ぜものなしの、キラキラと輝く才能。まさに天才と言っていい。その天才に比べたら、演技がうまいとかへただとかそんなことは取るに足りないことだ。自分の才能をベストな形で世に示すことができたのは、本人にとっても世間にとっても何よりの幸福であった。私たちはあなたのことをいつまでも忘れません。ご苦労さまでした。(「小泉孝太郎デビューCM。スタートにして終焉なり」p132)

メディアでも首相の息子だからということで忖度されたタレントをキッパリなで斬りにしている。
しかし、政治家の子というだけの「才能」を高く評価し、政界は2世、3世議員だらけになってしまった。
考えれば、国民が望まなければこんなことにはなっていなかったのだろうが。

2時間ドラマのリアリティのなさ…は、メインの殺人事件にあるのではなく、サイドストーリーである「なんかラブコメ気味」というところから漂うのかもしれない。あり得ない話をあり得ないキャストが演じる。マイナス×マイナスで大きくなった数値は、なんだかもう「+」なのか「-」かよくわからない。それが2時間ドラマいま衰えずの原因かもしれない。(「2時間ドラマの王子様」船越英一郎 もうひとつの不可解」p134)

私はドラマを全く見ないのでよくわからないが、相変わらずテレビの番組欄の夜は相変わらずドラマが多いようだ。
見ている人はドラマに何を期待しているのであろう。一度聞いてみたい。
私にはバラエティにしてもドラマにしても「気紛らせ」以上のものではないように思えるのだが。

若手のお笑い芸人やアイドル、ミュージシャンが口にする「タモさん、タモさん」は単なる呼称ではなく、「対タモリ」観ひいてはタモリを定点とした自分の位置宣言という側面もある。タモリを「タモさん」と呼ぶこと自体よりも、タモリを「タモさん」と呼ぶ自分に意味があるのである。…
 そしてこの「リスペクトフォータモリ」ブーム。タモリの何をリスペクトしているのかと言えば、この「期待されていない状態」ではないかと思う。「タモさん、タモさん」と言うことにはリスクがない。かつてBIG3と言われたたけし・さんまに置き換えてみるとそのノーリスクぶりが際立つ。(「いじれる大物タモリに「リスペクト」を捧げるのが流行っている」(p135-136)

まあ、これはタモリの人格の立派さにもあるように思う。
私が最初にタモリを知ったときは、あの批判性に惹きつけられたが、今のタモリには批判性は皆無だ。
バラエティに出て、「穏やかないい人」というキャラで生活を安定させた以上、ナンシー関の期待するような批判性は望めないのだろう。

バカに目的を持たせなければ消費できないのだ。(「久々の目的なき「バカ」氷川きよしは正統派アイドル」p138)

あまり事情に詳しくないが、テレビは「バカ」が価値(消費性)があるようだ。
自分よりバカがいるという安心感が価値になっているのだろうか。

原のライバルは落合でもバースでもなく「原クン」という呼び名。(「ジャイアンツ原の最大のライバル、それは「原クン」という呼び名」p140)

人気は実力ではなく「かわいさ」が大切だ。だからアスリートには「かわいさ」をもとめる。
れっきとしたアスリートに対して「真央ちゃん」とか「結弦くん」とか呼ぶわけだが、これはきっとメディア側の消費のための戦略なのだろう。

プロレスラーはどんどん日の当たる場所(テレビ)に担ぎだされているのに、プロレス自体は置き去りである。それが、レスラーがテレビの中で違う読まれ方をされてしまう原因だ。(「プロレスラーという「人間」をたずねて」p170)

テレビ側としては「プロレス」という文化がどうなろうとかまわないのだろう。要は消費財を求めて次から次へと開発していって使い捨てていくのである。

アイデンティティを主張することの誤り

グローバル資本主義では、違いをことさらに強調してそれを売らんかな、という活動が重要とされているようだ。
当然、宇宙に存在するものは多様性をもって存在するので個々のモノが違っていることは当たり前のことである。絶対的な全体は一つしかないが、切り離されたモノが相対的に違って当然なのである。

その相対的なものを強調して売ってお金儲けにしようというのが、今の資本主義が特徴とするもののように見える。そもそも、お金儲けがそれほど重要なことなのだろうか。

そこに意識を持った人間は資本主義のやり方を人間の生き方にも適用すればいいという考えを持ったようだ。他と違う自分を主張することがいいことだと。

その結果、世の中で苦しむ人が増えてきたという現象がいたるところに見えるようになってきたのだ。
自分が絶対的な一なるものから生まれてきたことを忘れたがゆえの苦しみである。

このことを池田晶子さんが過去に言ってくれていた。

考える日々〈3〉
池田 晶子
毎日新聞社
2000-12-01


間違っているのは、というより正確には、結果的に当の本人がそのことによって苦しくなるのは、自分を何らか他とは異なる偉いものと主張しようとすることだ。しかし、「存在の真実」に気づいている人はそうなることはまずあり得ない。自分は存在し、存在するとはすべてが存在することだからである。存在とするということにおいて自分と他人は異ならず、他人の存在を否定できないものを否定しようとすれば、苦しくなるのは決まっている。存在とは、否定したり肯定したりするものではなく、たんに認めるものなのである。存在の真実に気づいている人は、そのことを知っている。(「ダメな人ほど主張する」)

「存在の真実」に気づくまでは人間は悩み苦しみの中に生きなければならない。

私は一人でも多くの人がこのことに気づいて、はやく苦しみから「一抜け」してほしいと思う。とりわけ身近に居る母にそうなってほしいのだが、それが一番の困難な課題なのである。
97年も生きてきてこれほど単純で明快なことに気づけないということ自体が不思議だがほとんどの人が気づかずにその生を終わっている。

なぜこんな簡単なことが分かってもらえないのだろうかと、池田さんと同じ思いをしている。

安倍首相とユーミンの価値観とは

ユーミンが安倍首相の退任会見を見て泣いたと言ったことが物議をかもしている。



事の経緯を概略すると、

ユーミンこと松任谷由実(66)は、同日(8月28日)放送の『松任谷由実のオールナイトニッポンGOLD』(ニッポン放送)で会見の感想をこう述べた。
「テレビでちょうど見ていて泣いちゃった。切なくて。私の中ではプライベートでは同じ価値観を共有できる。同い年だし、ロマンの在り方が同じ。辞任されたから言えるけど、ご夫妻は仲良しです。もっと自由にご飯に行ったりできるかな」

この発言に対し、京都精華大学教授で若手リベラル論客の白井聡氏が、

「荒井由実(松任谷の旧芸名)のまま夭折すべきだったね。本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいいと思いますよ。ご本人の名誉のために」

とつぶやき、ネットで炎上してしまったという。
白井氏は、Feecebook上で「声明」を発表。上記の投稿を削除したことを報告した。

 ユーミン、特に荒井由実時代の音楽はかなり好きです(あるいは、でした)。それだけに、要するにがっかりしたのですよ」と説明。続けて、「偉大なアーティストは同時に偉大な知性であって欲しかった。そういうわけで、つい乱暴なことを口走ってしまいました。反省いたします」と謝罪した。

つまり白井氏はファンとしてユーミンに裏切られた気がして思わず過激な書き込みをしてしまった、ということらしい。
白井さんもネトウヨから同じような過激なツッコミを常に入れられているので、思わず彼らの口調でつぶやいてしまったのでしょう。

それにしてもユーミンの発言に戻ると、「私の中ではプライベートでは同じ価値観を共有できる。同い年だし、ロマンの在り方が同じ」という発言をどう受け止めるべきだろうか。

ユーミンの多くの作品を思い起こすと、恋愛とスポーツに関するものが多い。コトバと音楽を人間感覚に訴えて膨大な曲を生み出したもので、「知性」というよりも「感性」とか「感情」に根差すものが多いことが分かる。

白井氏はユーミンに対し「偉大なアーティストは同時に偉大な知性であって欲しかった」というのが間違いで、すべての偉大なアーティストが知的であるわけではない。どちらかというとアーティストは「感性」が第一であるように思う。
アメリカではアーティストには「知性」や「哲学」が求められる場合が多いように思うが、日本のアーティストに「知性」を求めても仕方がないように思う。

一方の安倍氏や明恵氏も「感性」や「感情」は溢れるほどあるように見受ける。
しかし、政治家には知性が必須である。政治家に「感性」や「感情」が溢れるばかりあるのも結構だが「知性」を欠くということは決してあってはならないことだ。

そういうことを勘案すると、ユーミン氏が安倍氏と「感性」面の価値観や「ロマンの在り方」が同じであっても何の問題もないことになるが、安倍氏が8年間近くにわたって「知性」を発揮してくれたかどうかは大きな問題だ。

一体、われわれ国民は、何を求めて安倍氏を首相にしたか?この問題は焼跡となった日本の政治システムを前に今、国民一人一人に突き付けられている。

才能とのつき合い方

今朝(2月8日)の新聞で歌手の青山ミチさんの訃報を知った。急性肺炎で67歳だったという。
子どもの時に聴いた記憶があったのでYoutubeで調べてみたらたくさん出ていた。代表作というべき「ミッチー音頭」を聞いて驚いた。すごい歌唱力です。


1966年11月に覚せい剤で逮捕され、レコードの発売がお蔵入りとなった「風吹く丘で」は、ヴィレッジ・シンガーズでヒットした「亜麻色の髪の乙女」と同じ曲なのですが、これも素晴らしい歌唱です。


こんな素晴らしい才能でしたが、若くして歌手としての生命を絶たれてしまいました。

そういえば藤圭子さんもその天才ともいうべき歌唱力を持ちながら62歳で自ら命を断ってしましました。

お二人以外にも天才的な才能を持ちながらそれを生かしきれず不幸な人生を送らざるをえない人がけっこう多いように思う。
こういう事例を見るにつけ、人の才能を羨むより自分の凡庸さに感謝したいと思いました。
こんなことに気づかせてくれた青山ミチさんに感謝し冥福をお祈りしました。
ごあいさつ
日々の生活の気づきから人生の成熟を目指しています。

幸せ職場の考え方は、
幸せ職場
をご覧ください。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14
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