日々の気づきノートです。

姉妹ブログ「勇気の出る名言集」を始めました。
過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

幸せを運ぶことば

加藤諦三「人生を後悔することになる人・ならない人」その6



西洋近代の考え方では、「個人」の確立ということがまず社会人として求められる。
西洋で生まれた心理学もその中のものであるから、当然「個人(自己)」の確立ということが求められている。

自己執着を乗り越えるためには、自我の未確立を乗り越えるしかない。青年期の重要な課題の一つは興味の覚醒である。自己執着の強い人は、まだ青年期の課題がすんでいない。
 自我の確立のためには、無意識の意識化が必要である。(p184)

これは難しい問題である。
自己執着に苦しんでいる人に自我を確立しなさいと言っている。全くの矛盾であるわけだが、青年期に自己に執着しすぎて悩んでいる人というのは、自分を大層なものだと勘違いしているのではなかろうか。
人間というものはすべからく自分のあずかり知らないところで産み落とされ、世間に揉まれ苦しんで、必ず死ぬという存在であることをまず、見なければならない。
「無意識の意識化」なんてどうやってやるのだろうか?

欠乏動機の人は、相手が自分にとって役に立つか立たないかという観点から見る。…
 彼らは賞賛それ自体を求めているのであって、相手との心の交流を求めているのではない。
 成長動機で動いている人は相手を道具としてではなく、独立した一個の人間として見る。(p185-186)

欠乏動機とは周りを動かすにはどうすればいいか、という観点で生まれてくる。
しかし、それは不可能な話であるのは原理的に明らかである。そのような動機に振り回されている人も多く見られるが、最終的には本人が気づくことになる。

非生産的構え、悲観主義的解釈、問題解決の意志がないという三つの特徴は、同じ一つのパーソナリティーの中に現れるそれぞれの側面である。(p187)

「退行指向」の人の一般的行動と思っていい。

フロイドによれば、抑圧は基本的に逃げる試みである。しかし、私たちは自分自身から逃げられない。
 基本的に自我防衛はいつも自己欺瞞に至る。これがフロイドの神経症論の核である。(p200)

退行しようとする人の最初の行動が「欲求を抑圧」するところから始まっているのかもしれない。欲求も外に出してみなければ成長はない。出して周りの反応が返ってきてこそ、成長の機会が得られる。
抑圧すると周りとの関係が生まれない。その結果の不満が「投影」という形で現れる。

自分が人を妬んでいるとか、嫉妬しているとかいうことを意識するのは不愉快なことである。…
 自分の今の嫉妬を「思いやり」とか「配慮」とか「愛情」に合理化する方が楽である。
 しかしその不愉快な気持ちを合理化でごまかすと、その先にはもっと深刻な不快感が待っている。…
 マイナスの感情を合理化することの代償は高い。代償は不幸である。(p206-207)

毒母が「愛」を口にして正当化するパターンである。自分の心の底を見て蛇蝎を見る人(親鸞)はその毒を昇華させる方法を考えるだろう。
すなわち「煩悩即菩提」である。

消費文化はfalse needsを作り出した。
 生きるのに有害で、必要など全くないものを、「必要なもの」と思い込ませた。
 このことの問題は実は深刻である。消費文化は、「あなたは厳しく辛い試練に耐えなくても幸せになれますよ」という幻想をふりまいた。…
 しかし消費文化が与える幸せは真の幸せとは、なんの関係もない。
 むしろ真の幸せを遮断する。(p207-208)

消費文化(資本主義)が生み出すモノゴトはすべてニセモノである。こんなものがあればいいでしょう、と近づいてくる。
その結果、日本は便利な社会だと思っているが、その結果、街中で見る醜悪な光景(僻地に突如現れる公共建築物、駅前のビル群、いたるところにある自動販売機、全く調和の取れていない住宅地…)を生み出した。
果たしてわれわれは近代化(資本主義)で幸せになりえたのだろうか。

消費社会は常に逃げ場を用意してくれる。常に言い訳を用意していてくれる。
「固執する」ということは「認めない」ということでもある。
 固執イコール現実否認でもある。(p211)

最近、話題のギャンブル依存症なども「固執」そのものであろう。
ギャンブル大国日本は、まさに消費文化の勝利を表わしている。
それを多くの場合、行政が行っているというのもおかしな話である。大阪のIRしかり。
こんなおかしな社会を生み出したわれわれ日本人はそろそろ自分の胸に手を当てて考える時期じゃなかろうか。


加藤諦三「人生を後悔することになる人・ならない人」その5



成長している人と退行し続けている人との違いは、一目でわかる。
私も現役サラリーマンの時は、一回会って話をすれば分かった。しかし、問題は会社の中では事を前に進めるのが仕事なので、「退行欲求」にドップリ浸かっている人と仕事する時には弱った。
今は人と協力して事を進める必要がなくなったので、実に楽になった。「退行」している人に関わらなければいいのだから。

逆境に強い人は楽観主義である。悲観主義は退行欲求の隠れた表現である。(p131)

退行欲求の中にいる人は「悲観」を前に出しておけば、モノゴトは前に進める必要はないので大変便利なのである。

幸せとは基本的に、人生における個性化の過程に成功することである。(p133)

これは、あまり聞かない考え方である。しかし、意味もなくこの世に産み落とされて、自分で意味を綴りあげていくことが人生であるとしたら、もし、自分が幸福であるということが感じられるのは自分の人格が作り上げられていく実感を感じる時であるかもしれない。
また人類の生き残りということから言えば、多様化の一環としての個性化により、社会全体のレジリエンスを高めていくことが「いのち」の継続に役立っているといえるのかもしれない。

成長することが人間の「唯一の正しい生き方」である。(p140)

そもそも「無常」の世で、留まっていることはありえない。止まれない以上、向上するか退行するしかないが、「退行」して赤ちゃんにもどることは不可能である。
結局、人間は苦しくても成長するしかないのである。

人に見せるためではない生き方を始めた時、人は自分の成長に気がつく。(p141)

まったく私の実感そのものである。人の目が気にならなくなった時から、真の成長・成熟・自己実現の道を歩み始めた。

神経症者は現実を敵と思っている。べラン・ウルフは、現実は味方と言っている。
 現実は自分を傷つけない。自分を傷つけるのは自分である。(p147)

現実は「無常」である。しかし、神経症者は留まりたい、退行したい、しかし、それは原理的に無理。現実を拒否するが無理は無理だ。

満足していない中で選択するのが欠乏動機。
満足している中で選択するのが成長動機である。
 欠乏動機と成長動機の葛藤は、生涯を通じた葛藤である。(p154)

「欠乏動機」とは現状に欠けているものを感じることから欠けたものを手に入れるために行動しようとする動機のこと。
しかし、「無常」の世の中では欠乏を感じない時でも何かしらの行動意欲が出てくるものだ。
すべての欲望が達成された後でも、残る欲望こそが「自己実現」の欲求ということになる。
世の中は豊かになり欠乏が感じられなくなったとしても、自己実現欲求が頭を出してくる。
しかし、多くの人はそれを正視できないので「気紛らせ」に走る。本人はそれが自己実現の道だと錯覚しているが、いつまで経っても満足することはできない。

世の中には、「死んでも不幸を手放しません」という人もたくさんいる。それは退行欲求の強さを表している。
 人は不安を避けたい。そこで命がけで不幸にしがみつく。「幸福か不幸か」の問題よりも、「不安か安心か」の選択の問題の方がはるかに本質的で、深刻である。
 人は不幸と不安のどちらかを選ばなければならない場合に、不幸を選ぶ。(p154)

母の人生はこんなだったのだろう。加藤さんのように多くの人の心の悩みを聞いた人はこのような人が多いことを実感されているのだろう。

人間は自らを万物の霊長と位置づけ、その傲慢と愚かしさに気づかないから、常に無理して生きることを強いられるため悩むのである。(p164)

自分自身で不幸・苦しみ・悩みという刺激を作り出して「自己実現欲求」を見ないようにしているわけである。

不幸依存症の人は、頑張って不幸になるだけの努力を、止めようとしても止められない。(p166)

依存症が話題になっているが、こんな「依存症」もあるのである。
母も「不幸依存症」になっていたのだろう。確かに口を開けば愚痴・悪口だったが、その時の目は確かに輝いていた。

もし勇気という言葉を使うなら、勇気とは「不幸になるだけの努力」を止める決断のことである。(p167-168)

仏教でいう「無常」ではまず「苦」がありそれが止むとき「楽」になる、と見る。
「不幸になるだけの努力」とは「苦」を見つめることであろう。
「勇気」とは「無常」を知り(智慧)「苦」によって心が汚れることを防止し真理(無常)を喜ぶ工夫をすることではなかろうか。

不幸になるだけの努力を止める、その勇気を持てば幸せになれる。
 人は皆幸せになりたいと願っている。その気持ちに嘘偽りはない。
 しかし幸せになりたいという願望よりも、不幸になる魅力ははるかに強烈である。
 不幸になる魅力とは何か?
 それは「安全」という名前のものである。(p168-169)

幸せになりたいという願望よりも、不幸になる魅力ははるかに強烈である」という言葉は怖いが、にわかには信じがたい。
しかし、母が愚痴・悪口を言っている時に目の輝きや顔色を思い出すとなるほど、と思う。
人間は誰でもこのような現実の地獄に落ち込み得るのである。注意しなければならない。


加藤諦三「人生を後悔することになる人・ならない人」その4




今の世間を眺めていると、一番大事なことを忘れるための「気紛らせ」でうめられているように思う。
そんなゴミの中で生きているより、「何のために私は生きているのか」について考えてみることがこの世に生きるすべての人間にとっての救済になろう。

「人生の意味および、生きる価値か何か?」を考えることは、生きていく上で最も重要である。…
 政治的民主主義や経済的繁栄や技術進歩だけでは、人生の諸問題は解決できない。
 人生の諸問題は、人の心の自然な法則によってしか解決しない。(p66-67)

まさに正論である。
自分のこころと向き合わない限り、人生はいつまで経っても「気紛らせ」のグルグル回りから外に出ることはできない。
経済的、技術進歩によって人間の真の救済は得られることはない。そんなことは今の世の中で起こっていることや歴史を少しだけでも眺めればわかることなのに。

大人であれ、子どもであれ、マイナスの感情を吐き出させることは前に進むために必要なことである。(p74)

感情、特に「怒り」の感情は強力だ。怒りは周りにも自分自身にも強力な被害をもたらす。内に留めている限りその毒は自分や周りを破壊し続ける。

成長しない人は「どうしたら傷つかないですむか」と考えている(p76)

逆に言うと、「「どうしたら傷つかないですむか」と考えている人は成長しない」ということになる。これは成長していない人を見れば一目瞭然である。

こころが成長していない人は、自分が「不幸だ」「惨めだ」と思っていたい(p81)

そして実際、不幸で惨めである。

人が、安全第一になるのは幼児願望が満たされていないからである。社会人として一人前の義務と責任を果たす前に、まず幼児願望を満たそうとする。
 しかし、幼児願望が満たされていない人は、受け身のままでまず誉めてもらいたい。
 安全第一で現実からの退却である。それは夢の喪失である。それは大きくなってしまった幼児である。(p87)

それにしても今の世の神経症者は、実際に幼児願望が満たされていなかったのだろうか。
自分は幼児願望が満たされていないという思い込みではなかろうか。
私の仮説は、現代社会では困難との対峙を避けさせようとする資本主義からの猛烈な要請がある。
それを解決するためのグッヅとサービスが溢れている。そこに溺れさせることが資本主義の目的である。
その罠に嵌っている人が多いのではないだろうか。

防衛的な力と成長する傾向との根本的な矛盾は、人間の最も深い本性に埋め込まれている。それは今もまた未来永劫にもそうである。(p90)

成長欲求と退行欲求は相矛盾しながら進行していく。退行欲求は成長欲求を呼び出し、成長欲求は対抗欲求を呼び出そうとする。
成長欲求をうまく引き出せている人は自分の退行欲求をうまく使う。

どんなに西田哲学を学んでも、道元を学んでも、自分の悩みの原因を知らなければ、意味がない。
 それは哲学を学ぶ危険である。
 自らの不幸の原因をはき違える。(p92-93)

哲学や思想も自分の成長・成熟のための道具であると考えておけばいい。ドップリ嵌るとカルトや依存症と同じ結末となる。

「自分を棚に上げる人」の苦しみは一生消えない(p93)

目の前で起こる現象を自分の問題と思えない人は一生、自分の人生を生きない内に終わってしまう。

安全性の優位とは、成長欲求と退行欲求が葛藤して、退行欲求が勝つということである。
 幸せは安全性の優位と矛盾する。
 幸せになりたいという願望と、その人の隠された憎しみとは矛盾する。(p95)

葛藤(矛盾)のないところに成長はない。退行欲求をなくそうとするのではなく、使いこなすのだ。

生きることは誰にとっても試練の連続である。棺桶の蓋が閉まるまで試練は続く。(p128)

最後には、「死」という安息が待っていてくれる。
それまでは安心して自分の試練の人生に没頭していればいい。


加藤諦三「人生を後悔することになる人・ならない人」その3



結局、無常な世界を生きている以上、いろんな問題が起きてくるのはあたり前である。
仏教ではまず「苦」があり、「苦」が一休みした時のことと「楽」と見ている。
そのことを知れば、いたずらに苦しみを怖がる必要はない。「苦」は来るときには来る。来た時の覚悟はしておかなければならない。

苦しみのない人生を生きていれば、つまり苦しみから徹底的に逃げていれば、最後は地獄である。 戦争を起こそうとするのはそういう人たちである。だから戦争はなくならない。
 人間性を理解しないで、生きることに絶望する人が戦争を起こしているということを理解するのは、何よりも重要なことである。(p38-39)

普通は、「苦」から逃れるというのは、受け入れるよりも困難な場合が多いが環境によっては(親の過保護など)によって可能となる。しかし、その結果は加藤先生の指摘するようになりがちである。
無常な世界は、「苦」を回避すればするほど大きな「苦」がやってきてついには逃げようのないようになるからだ。

人は「幸せを求めるよう」に出来ているのであって、「幸せになるよう」に出来ているのではない。(p46)

最初に言ったように、人生は生まれた時から死ぬまで「苦」で占められている。その合間に「楽」があって、それをわれわれは「幸せ」だと解釈しているのである。

人は自分の心の葛藤に直面するよりも、他人を批判している方がはるかに心理的に楽である。あるいは、憂鬱になって落ち込んでいる方がはるかに楽である。
「憂鬱になって落ち込んでいる」というのは、攻撃性の間接的表現である。(p51)

今の世がマウントの取り合いになっているという現実の原因である。周りを批判することによって自分の「苦」を紛らせようとしているのである。
「「憂鬱になって落ち込んでいる」というのは、攻撃性の間接的表現」だとは思ったことがなかった。しかし、状況によっては「落ち込むことで」他者の気をひき自分を優位に置くという戦略もあるのかもしれない。ある意味これもマウントの一種である。

今の立場に固執する人は、自分に価値を感じられない人である。それ以外に価値はないと歪んだ価値観を教え込まれた人である。(p53)

これも意外な指摘である。日本の場合、その人間よりも「立場」が重要視される傾向が強い。「個」としての自分がないから「立場」で支えようとしているわけである。
しかし、「立場」も「無常」な世ではいつまでもあるものではないから、「立場」が去ったら空っぽな一人の人間が残るだけである。
昨日、元自民党幹事長で政界引退会見をした人がいたが、その姿やまさに気の毒な限りである。



苦しみとは、自分の現実を認めることである。
 自分の誤りを認めることである。
 何より苦しいのは自分が自分に失望していることを認めることである。(p55)

苦しみとは、自分の現実を認めることである
何と力強い言明であることか。真の人生はここから始まるのだ。

人生の問題は煎じ詰めれば、現実否認するか、「現実の自分」を受け入れて自己実現するかである。(p56)

人生の真理である。「自己実現」とはどこかに自分の欠けたものを探しに行くのではなく、「今の自分をそのまま認める」ことによって完成するのである。

人生は不公平ではあるが、自らの人生にどういう態度をとったかということで、その人の偉大さは決まる。…
「神経症者はたしかに、かれが自分の神経症に対して責任があるという意味では、自由ではありません。しかし、かれが自分の神経症への態度に対しては責任は大いにあり、またそのかぎりではかれにもある程度の自由がそなわっているのです」(フランクル)
 神経症になるには神経症になるだけの原因がある。神経症になったことには責任はない。
 しかしその人が、自らの神経症の人生にどういう態度をとったかには責任がある。(p64)

「人生は不公平である」という見解には異論がある。私は「必ず死ぬ」という現実の前には、すべての人間の人生は完全に平等だ、と考えている(もちろん加藤先生はそのような前提の上で個別の現象について言っておられるのだと思うが)。
そのような人生において「神経症」も人生に出会う「苦」の一つである。そうであれば受け入れるという一択しかありえない。
そのような「苦」から逃げ回る人生はもはや「人生」とは呼ぶことはできない。勇気をもっていかなる現実も受け入れる覚悟が必要なのだ。


加藤諦三「人生を後悔することになる人・ならない人」その2



私は今、70前の高齢者であるが、最近これぐらいの年で亡くなる人の話を聞くことが多い。
年に関係なく明日の命が保証されているわけではない。
日々、今日一日で死んでもいい気持ちで生きていきたいと思っている。
そんな今、加藤諦三さんの本を読んで学ぶことは大きな意義があると思う。


「自分自身であろうと決意」していないと、他人に気に入られるために自分を裏切り続けなければならなくなる。(p10)

他者の目を気にしている人間(特に日本人)が多いようの思う。
実際、いろいろな広告を見ていると、他者の目を気にさせるような広告ばかりが目に付く。
そんなふらふらしたことでどうするのだと思うが、他者のことは仕方ない。自分だけは自分のハンドルをしっかり持っていこう。

「現実の苦しみ」と「心の苦しみ」とは違う。…
 苦しみは成長につながる…
 心の葛藤に直面することは苦しいが、それが成長、解放と救済に通じるということである。(p11-12)

よく思うのだが、苦しみを感じることがなければ成長も成熟もない。
そんなことで子どものままで大人になっている人が多いように思う。そして何も学ばずに死んでいく人がこれまた多い。
これも結局、資本主義の要請であるのだが、果たして日本の社会はこれでよいのだろうか。

人間は生まれたときから、成長欲求と退行欲求の葛藤の中で生きることになる。…
「自分に負けない」とは、自分の退行欲求に負けない、成長欲求に従うということである。(p12)

最終的に成長欲求が勝利すれば成熟し独立した大人になれるが、退行欲求が勝てば神経症に陥り、引きこもりとなる。
引き込んでいれば苦はなくなるのかもしれないが、それでも深層にいる成長欲求が「それでいいのか」とささやきかけて悩ませる。
そして最終的には自分の生命を維持するために独りで立ち上がらなければならない時がやってくるだろう。

私は、人間は希望を持てば善になるし、絶望すれば悪になると思っている。憎しみ善の存在でもなければ、悪の存在でもない。
問題は人はどのようなコンテクスト(背景・状況)の中で生きるかということである。(p28)

コンテクスト(文脈)とは当然外部から押しつけられるものだが、それを自分で解釈することで完結する。外部からの条件を不条理として拒否すれば成長も成熟もないが、それを与えられた使命と解釈すれば宝に変貌させることができる。

「社会的に望ましいこと」と、「本能衝動の満足」という人間の内面の矛盾したものを、自我によって統合させて、はじめて人間は人間らしく、かつエネルギッシュに生きられる。(p29)

いつも言っているように仏教では「無我」を主張しているが、そうは行っても「自分」のようなものは自然に立ち上がってくる。それを上手に使いこなすことが良く生きる手段となる。
「無我」は真理だが真理はそのままでは使えない。立ち上がってくる無我の「自分」を使いこなしてことも真理が生きる。

「依存と無力」を前提として生まれてくるということは、人間の宿命である。…
 本当の感情や願望を、無意識に追いやる抑圧は、人間が真実から身を護る方法である。
 現実に耐えられない人間として生まれて、現実の耐えられるような人間になる過程が、「苦しみ」である。
 だから「苦しみは解放と救済に通じる」のである。(p30)

人間は「依存と無力」のまま産み落とされるが、外から押しつけられる現実と折り合いをつけながら、生き延びていかなければならない。
そのプロセスが人生であり生きていくというものである。
神経症とはそのプロセスを拒否している人が陥る病である。

人生のさまざまな問題は不可避的なもので、どんなに避けたいと願っても避けることは出来ない。
 人生が楽しくないのは、それらの問題を解決する意志がないからである。
 真の自我防衛とは、「コミュニケーション能力の育成」である。社会的成功ではない。
 そこを間違えて、劣等感から優越感を求める人がいる。そうして成功を求める。
 しかしどんなに成功しても真の安心感はない。…
 今述べてきたような問題の解決は、人類普遍の課題である。…
 母親との原始的第一次的な絆を喪失し、誰でも不安と孤独に直面する。
 生きることは、日々起きてくる問題を解決することである。…
 それを拒否すれば、生産的に生きることは不可能である。人間的にも社会的にも引きこもるしかない。…
 神経症は、この人生の不可避的な問題を回避しようとした結果である
。(p33-34)

いままでの私の解釈をまとめると以上のような記述になる。
それにしても「生きることは、日々起きてくる問題を解決することである。…それを拒否すれば、生産的に生きることは不可能である。人間的にも社会的にも引きこもるしかない。…神経症は、この人生の不可避的な問題を回避しようとした結果である」とは何と今の日本社会を表わすくだりであろうか。
国のトップから一般国民まで現実をまともに見ることなく、先送りして引きこもってどこに成長や成熟があろう。
今や日本全体が神経症に陥っているといっても過言はなかろう。


ごあいさつ
日々の生活の気づきから人生の成熟を目指しています。

幸せ職場の考え方は、
幸せ職場
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「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14
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