西洋近代の考え方では、「個人」の確立ということがまず社会人として求められる。
西洋で生まれた心理学もその中のものであるから、当然「個人(自己)」の確立ということが求められている。
自己執着を乗り越えるためには、自我の未確立を乗り越えるしかない。青年期の重要な課題の一つは興味の覚醒である。自己執着の強い人は、まだ青年期の課題がすんでいない。
自我の確立のためには、無意識の意識化が必要である。(p184)
これは難しい問題である。
自己執着に苦しんでいる人に自我を確立しなさいと言っている。全くの矛盾であるわけだが、青年期に自己に執着しすぎて悩んでいる人というのは、自分を大層なものだと勘違いしているのではなかろうか。
人間というものはすべからく自分のあずかり知らないところで産み落とされ、世間に揉まれ苦しんで、必ず死ぬという存在であることをまず、見なければならない。
「無意識の意識化」なんてどうやってやるのだろうか?
欠乏動機の人は、相手が自分にとって役に立つか立たないかという観点から見る。…
彼らは賞賛それ自体を求めているのであって、相手との心の交流を求めているのではない。
成長動機で動いている人は相手を道具としてではなく、独立した一個の人間として見る。(p185-186)
欠乏動機とは周りを動かすにはどうすればいいか、という観点で生まれてくる。
しかし、それは不可能な話であるのは原理的に明らかである。そのような動機に振り回されている人も多く見られるが、最終的には本人が気づくことになる。
非生産的構え、悲観主義的解釈、問題解決の意志がないという三つの特徴は、同じ一つのパーソナリティーの中に現れるそれぞれの側面である。(p187)
「退行指向」の人の一般的行動と思っていい。
フロイドによれば、抑圧は基本的に逃げる試みである。しかし、私たちは自分自身から逃げられない。
基本的に自我防衛はいつも自己欺瞞に至る。これがフロイドの神経症論の核である。(p200)
退行しようとする人の最初の行動が「欲求を抑圧」するところから始まっているのかもしれない。欲求も外に出してみなければ成長はない。出して周りの反応が返ってきてこそ、成長の機会が得られる。
抑圧すると周りとの関係が生まれない。その結果の不満が「投影」という形で現れる。
自分が人を妬んでいるとか、嫉妬しているとかいうことを意識するのは不愉快なことである。…
自分の今の嫉妬を「思いやり」とか「配慮」とか「愛情」に合理化する方が楽である。
しかしその不愉快な気持ちを合理化でごまかすと、その先にはもっと深刻な不快感が待っている。…
マイナスの感情を合理化することの代償は高い。代償は不幸である。(p206-207)
毒母が「愛」を口にして正当化するパターンである。自分の心の底を見て蛇蝎を見る人(親鸞)はその毒を昇華させる方法を考えるだろう。
すなわち「煩悩即菩提」である。
消費文化はfalse needsを作り出した。
生きるのに有害で、必要など全くないものを、「必要なもの」と思い込ませた。
このことの問題は実は深刻である。消費文化は、「あなたは厳しく辛い試練に耐えなくても幸せになれますよ」という幻想をふりまいた。…
しかし消費文化が与える幸せは真の幸せとは、なんの関係もない。
むしろ真の幸せを遮断する。(p207-208)
消費文化(資本主義)が生み出すモノゴトはすべてニセモノである。こんなものがあればいいでしょう、と近づいてくる。
その結果、日本は便利な社会だと思っているが、その結果、街中で見る醜悪な光景(僻地に突如現れる公共建築物、駅前のビル群、いたるところにある自動販売機、全く調和の取れていない住宅地…)を生み出した。
果たしてわれわれは近代化(資本主義)で幸せになりえたのだろうか。
消費社会は常に逃げ場を用意してくれる。常に言い訳を用意していてくれる。「固執する」ということは「認めない」ということでもある。
固執イコール現実否認でもある。(p211)
最近、話題のギャンブル依存症なども「固執」そのものであろう。
ギャンブル大国日本は、まさに消費文化の勝利を表わしている。
それを多くの場合、行政が行っているというのもおかしな話である。大阪のIRしかり。
こんなおかしな社会を生み出したわれわれ日本人はそろそろ自分の胸に手を当てて考える時期じゃなかろうか。