半藤さんの歴史の本は、他の歴史書と趣がずいぶん違う。
もちろん学術書ではないというのはそうなのだが、庶民的である。庶民の目から見た歴史といっていいのではないだろうか。
歴史というのは、要するに、人間がつくるものですから、つまり、人間を学ぶことが歴史なんですよ。(p172)
つまり、人間から見た人間を追っていく歴史ということだと思う。
半藤さんはよく「民草」という言葉を使っていたと思うが、その通りだと思う。
「歴史を学ぶとは人間を学ぶこと」
良い言葉です。
歴史というのは、ここに一つの史料がある。だけど、失われた資料があるということに想像力を働かせて、「では、この間に何があったのか」ということを、ごく常識的に自分で考え抜いて埋めていくことで、現在残っている史料というのがどういう意味を持つかということがわかるのだと。(p211-212)
映画の「日本で一番長い日」を見ても分かるが、昭和20年8月14日から霞が関では官庁の庭で書類がジャンジャン燃やされた。
「もりかけさくら」でも公文書が消去、捏造、隠蔽されているが、こんなことが許されるのは日本ぐらいのもんじゃないだろうか。
これは終戦時の官僚の遺伝子がそのまま現在の官僚に引き継がれているからだ。
そこで現代の歴史家は、アクセスできない情報を推理して歴史の空間を埋めていくことになるのだ。
(誰にも見せないのにコツコツ書くのはしんどいですね)
…だいたい、誰にも見せないのに自分だけ、勝手にコツコツ書いているというのは、よほど素っ頓狂でなければなかなか続かない話なんです。でも、そこはやっぱり、わたしもいくらか変わり者かなと思うのはそこなんですが、誰も見なくても、誰にも見せるつもりなくても、とにかく練習のためにやっていればいいんだと思うから、書いていましたね。(p220-221)
私も半藤さんと同じ思いで書いているように思う。
誰も読まない文章をアタマをひねりながら書き続ける。飽きもせず書き続けるそこに意味があるように思う。
飽きずに勉強を、一つのこと、何でもいいからやるということは、簡単に言えば、十年一つのことを研究なされば、たぶん、日本では専門家の一人になれるんじゃないですか。…
人間は、目移りするんですよ。それをやっていても無意味じゃないかと思ったりするんですよ。でも、そんなことはないですね。必ず、一つのことをやっていると、ある一つのことができあがると、枝葉ができる、必ず広がるんです。(p227)
私の場合、10年で専門家になれるとは思わないが、死ぬまで上気元でやっていればそれでいいのです。
人間は、別に専門家になるためにこの世に生まれてきたわけではない。「自分」になるために生まれてきたのである。
半藤は、「真理は細部に宿る」という言い方を好んだ。事実と真実とはそれこそ大きく違うのだが、半藤の言をさらに詳細に見ていくならば、私は、「真実とは常に正面に大きく聳え立っているわけではない。むしろ目立たぬところに何気なく存在している」と理解出来た。(保坂正康「解説」p233)
これはその通りだと思う。人間の意識の99%以上が無意識の世界であろうという。人は99%以上を無意識で行っている以上、その行動の中にこそ真実は必ず残されている。
半藤史観は国民史観である。(保坂正康「解説」p237)
国民文学があるように国民史観というものがあってもいいし、国民哲学なんてものもあってもいいと思う。いずれもそれがお題目のプロパガンダになるのはいただけないが、国民の一定数に半藤さんの批判的精神があれば、今のような政権は生まれなかっただろう。
最後に、心に残った半藤さんの言葉、
戦争というのは、けっして天から降ってくるものでも何でもないです。人間たちの判断が、間違った判断をすると、また次の判断を、また間違った判断をする。その積み重ねが戦争のような非人間的なことに到達していってしむ。だから、やはり、歴史を知らないと、教えてもらわないからわからないというのは、これからに若い人たちのつくっていく日本の明日のためには非常によくない話だと思いますので、ぜひ、歴史を自分で学んでいくということを積極的にやってもらいたいと思いますね。(p244-245)
歴史を自分のアタマで読み解いていく。そのためには、半藤さんから学ぶことは大いに有益なことだと思う。