日々の気づきノートです。

姉妹ブログ「勇気の出る名言集」を始めました。
過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

歴史から学ぶ

半藤一利「日本人の宿題」その2完

半藤さんの歴史の本は、他の歴史書と趣がずいぶん違う。
もちろん学術書ではないというのはそうなのだが、庶民的である。庶民の目から見た歴史といっていいのではないだろうか。

歴史というのは、要するに、人間がつくるものですから、つまり、人間を学ぶことが歴史なんですよ。(p172)

つまり、人間から見た人間を追っていく歴史ということだと思う。
半藤さんはよく「民草」という言葉を使っていたと思うが、その通りだと思う。
「歴史を学ぶとは人間を学ぶこと」
良い言葉です。

 歴史というのは、ここに一つの史料がある。だけど、失われた資料があるということに想像力を働かせて、「では、この間に何があったのか」ということを、ごく常識的に自分で考え抜いて埋めていくことで、現在残っている史料というのがどういう意味を持つかということがわかるのだと。(p211-212)

映画の「日本で一番長い日」を見ても分かるが、昭和20年8月14日から霞が関では官庁の庭で書類がジャンジャン燃やされた。
「もりかけさくら」でも公文書が消去、捏造、隠蔽されているが、こんなことが許されるのは日本ぐらいのもんじゃないだろうか。
これは終戦時の官僚の遺伝子がそのまま現在の官僚に引き継がれているからだ。
そこで現代の歴史家は、アクセスできない情報を推理して歴史の空間を埋めていくことになるのだ。

(誰にも見せないのにコツコツ書くのはしんどいですね)
…だいたい、誰にも見せないのに自分だけ、勝手にコツコツ書いているというのは、よほど素っ頓狂でなければなかなか続かない話なんです。でも、そこはやっぱり、わたしもいくらか変わり者かなと思うのはそこなんですが、誰も見なくても、誰にも見せるつもりなくても、とにかく練習のためにやっていればいいんだと思うから、書いていましたね。(p220-221)

私も半藤さんと同じ思いで書いているように思う。
誰も読まない文章をアタマをひねりながら書き続ける。飽きもせず書き続けるそこに意味があるように思う。

飽きずに勉強を、一つのこと、何でもいいからやるということは、簡単に言えば、十年一つのことを研究なされば、たぶん、日本では専門家の一人になれるんじゃないですか。…
 人間は、目移りするんですよ。それをやっていても無意味じゃないかと思ったりするんですよ。でも、そんなことはないですね。必ず、一つのことをやっていると、ある一つのことができあがると、枝葉ができる、必ず広がるんです。(p227)

私の場合、10年で専門家になれるとは思わないが、死ぬまで上気元でやっていればそれでいいのです。
人間は、別に専門家になるためにこの世に生まれてきたわけではない。「自分」になるために生まれてきたのである。

半藤は、「真理は細部に宿る」という言い方を好んだ。事実と真実とはそれこそ大きく違うのだが、半藤の言をさらに詳細に見ていくならば、私は、「真実とは常に正面に大きく聳え立っているわけではない。むしろ目立たぬところに何気なく存在している」と理解出来た。(保坂正康「解説」p233)

これはその通りだと思う。人間の意識の99%以上が無意識の世界であろうという。人は99%以上を無意識で行っている以上、その行動の中にこそ真実は必ず残されている。

半藤史観は国民史観である。(保坂正康「解説」p237)

国民文学があるように国民史観というものがあってもいいし、国民哲学なんてものもあってもいいと思う。いずれもそれがお題目のプロパガンダになるのはいただけないが、国民の一定数に半藤さんの批判的精神があれば、今のような政権は生まれなかっただろう。

最後に、心に残った半藤さんの言葉、

戦争というのは、けっして天から降ってくるものでも何でもないです。人間たちの判断が、間違った判断をすると、また次の判断を、また間違った判断をする。その積み重ねが戦争のような非人間的なことに到達していってしむ。だから、やはり、歴史を知らないと、教えてもらわないからわからないというのは、これからに若い人たちのつくっていく日本の明日のためには非常によくない話だと思いますので、ぜひ、歴史を自分で学んでいくということを積極的にやってもらいたいと思いますね。(p244-245)

歴史を自分のアタマで読み解いていく。そのためには、半藤さんから学ぶことは大いに有益なことだと思う。

与那覇潤「平成史」

未だによく腹に落ちない「平成」という時代。その謎のような時代は今の「令和」にもつながっている。
一体「平成」という時代は何だったのか?
与那覇潤「平成史」から学びます。

まず、教育について。山本七平の指摘からの紹介。

これは昭和16年(1941)年4月から、国民学校がであって、それ以前は、民間で相当に自由に実質的に小学校を建て、その学校を選択することも、自宅で教育して所定の試験に合格して義務教育履修と認められることも可能であった。…不思議なことに、戦後小学校が復活しても、この点は国民学校のままで、すべてが自由化した戦後において、教育だけが画一的硬直化をそのまま継続した。問題の基本はここにあると私は考える。(山本七平「「教育問題」以前」p69)

戦後、教科書は黒塗りされたとういうことは有名であったが、その実、戦後は「国民学校」のシステムそそのまま引き継いだのだった。
日本の戦後教育は全体主義をそのまま引き継いだというのだ。これは恐ろしいことではないか。
しかし、現状の世の中が戦前と同じような風貌を現わしているのは山本七平が言っているとおりだからではなかろうか。

与那覇さんの批評の目は厳しい。

宮崎(駿)さんの手塚治虫嫌い(正確には、手塚のアニメ作品嫌い)は有名ですが、1990年11月の取材では「戦後民主主義の持っているヒューマニズムの嘘くささでね、それで商売をやっていくっていうのは絶対に僕は間違いだと思うんです」と断言し、テレビ業界に染まり漫画家時代のニヒルな観察眼を捨てていった手塚を酷評しました。
 しかし、それでは平成が幕を開けた89年に、ヤマト通運とタイアップし日本テレビとの支援も受けて『魔女の宅急便』を商業的に成功させた、ご本人はどうなのだ。(p162-163)

現代社会ではその名を聞いて批判する人のない宮崎駿ですらこのありさま。
私も、宮崎駿さんの発言には違和感を感じる。そのスタジオは戦前が再現されているのではなかろうかと心配している。

しかし、それでも宮崎駿さんが資本主義に見事に丸め込まれているという現実はショッキングでした。

次に取り上げられたのが「臓器移植法」。議員立法の発起人だった野中広務さんの取った行動が取り上げられる。

97年7月、ついに臓器移植法案が採決、議論を重ねども一致しない問いを前にほぼ全党が党議拘束を外し、自主投票に委ねる異例のプロセスでの成立となりました。議員立法の発起人だった野中広務さんですら、かつて幼少期の長男の治療を停止した記憶にさいなまれ、議場に立つことができず棄権を選んだといいます。

採決の日が迫ってくると、だんだん、いくら脳死とはいえ、人の命を絶つことの怖さに脅かされた。そこで自民党のみんなが集まる部屋で言った。「悪いけど私は棄権させてほしい。自分には苦い経験があって、いま、それがガンガン毎日私を責めるんだ。その時の思い出が甦ってきて耐えられないんだ。…

過去からつづく歴史を生きることは、個人の生にとって時にあまりにも重く、自身の決断を不可能にさせる。いっぽうで言葉でいくら議論しようとも、判断を委ねられる「絶対の基準」はみつからない――。澄みわたる空に下で始まった平成ゼロ年代が、垂れ込める暗雲に覆われて終わってゆく。(p169-170)

臓器移植法は結局、人間の身体という最後の「自然」を商品にするという決断であったのか。

一億総中流とも呼ばれた戦後の均等的な国民意識は、なにか特定の指標を共有することで生まれたのではなく、単に社会を支配する権威者でも貧困にあえぐ窮乏者でも「ない」という、ネガティブな形で規定されたにすぎない。だからそこには、学歴が高いわりに所得は平均以下であったり、あるいはその逆だったりと、現実には多様なライフコースを送る人びとが混淆しており、主義一貫したイデオロギーによって統合することはできない。(p219)

「一億総中流とも呼ばれた戦後の均等的な国民意識」は偶然に形成されたものであったが、今から思えば私の人生の中で人間が一番寛容であった時代のように思える。

中曾根康弘は、安定した帰属先を失いアトム化してゆく平成の有権者の総体を「今までは「粘土」だったものが「砂」になってしまったと喩えつつ、こうこぼすことになります。
「小泉という変人が日本政治に出現したと〔メディアは〕いうけれど、その前に国民が変人になっていたんです」(p220)

確かにそうかもしれないが、中曽根も粘土にしたのは日本がアメリカの属国であるということを明らかにした(不沈空母)ことによってであることからして、その罪は重い。

個人のキャラクターを適当に演出することで、まずは感覚的に「なんとなくこの人は味方」という空気を作ることが第一であり、正当化する理屈はあとからつければいい。そうした思考法はいとも軽やかに、長年「戦後」の政治対立の構図を規定してきたはずの、憲法解釈にまで及びました。(p234)

安倍政権では野党が「印象操作」をしていると批判したが、自民党政権ほどこの印象操作で憲法をズタズタにした時代はなかった。

小さな政府のアジェンダ、新鋭の学者によるブレーン生起、意思決定プロセスの公開、情報化社会への対応、平成の序盤には輝かしい未来を約束するものとして頻繁に説かれたこれらの要素を、あたかもコラージュするかのように集大成する異形の政権が出現したとき、実はピックアップされた諸要素はその来歴を無効化され、母体だったはずの論壇――言語による筋道で討議する空間は衰弱していった。
 その意味で小泉政権は、「改革か保守か」・「新自由主義はコーポラティズムか」といった政策論の次元を超えて、歴史や一貫性を脱臼させる(=踏まえないで無視する)行動様式こそが富や権力をもたらすという、今日につながえう文明史的な転換こそを象徴していたのです。(p235)

思い返せば、私も(マスコミに騙されて)小泉純一郎に期待したが、今から見れば初代「脱臼」主義の人であった。その後に自民党は安倍晋三という「脱臼」芸術の粋を生んで、日本を破滅に導いているように見える。

やはり何事も筋が通ったものでなければモノにはならない。70年近い人生の結論の一つである。

令和3年(2021)私の10大ニュース

早いもので今日は令和3年の大晦日です。
今年も1年をふり返り、来年の改善につなげていきたと思います。

1. 母の大腿骨骨折と退院後の介護生活



1月23日(土)夕方、母が家の庭で転倒し、大腿骨骨折。母は骨折の痛みの中、必死で電話まで移動し、私に電話をした。
私は、実家に駆け付け救急車を呼び、C病院に搬送され入院。母は約3ヶ月入院して退院し、自宅へ帰り、私は母の介護のため実家に移り住む。

2. K君 コロナとの戦い



同窓会には必ず出席するK君は大学の同級生(工学部)。K君は、大学院の入試の時に突如として医学の道を選ぶ。彼のお父さんはお医者さんであったことで、大学院の入試というタイミングで人生の選択を決断した。彼は無事に医学部に合格し、医療者の道を進んだ。
遅くに結婚し、一女に恵まれ、まさに目に入れても痛くないほどの存在となった。
彼は、十三病院の院長となっていたが、新型コロナウィルスの戦いの中、2020年9月に新型コロナウィルスに感染し、前年の11月末に亡くなったということを奥様からの寒中見舞いで知る。
同期のほとんどがリタイアし、気楽な生活をしていた中、新型コロナウィルスで亡くなるとは全く意外な展開だった。いつも人の前に出るようなことのなかった彼が陣頭に立ってコロナとの戦いをしていた彼の姿はいまでにイメージできない。
K君の冥福を祈る。

3. 次女夫妻の一字帰国



母が入院中に主人のアメリカ駐在に帯同してアメリカのオハイオに駐在中の次女夫妻が一時帰国した。コロナ禍の中いろいろな制約の中、関空に迎えに行ったが、ゴーストタウンと化した空港の有様には驚いた。
次女の滞在中には母の見舞い(リモート)とかハイキングとかに行って楽しんだ。夫君はコロナ禍の隙をついて連日、職場の友人との懇親を深めていたが、その中、焼き肉屋へ招待され、中華料理をお返ししたがその時の懇親も楽しい思い出だ。

4. フクシマ原発事故10年


早いもので、東日本大震災、福島原発事故から10年である。この10年間ずっとこの問題を考え続けてきた。この事故の原因は単に想定外の地震であったとか、東電の対応が悪かったという問題ではなく、もっと深い因果関係を持っているように思うようになってきた。
私の結論としては、原発というような複雑な産業を日本のような国(地震多発、アメリカの従属国)が
選択すべきではなかったということであった。
次の惨禍を防ぐためにも日本が取るべき選択としては、脱原発しかないと確信している。

5. 母が退院、母と実家で同居



母は連休前の4月28日に退院した。96歳で大腿骨を骨折したという話をして、家に帰ってくると思った人はいなかったが、見事に回復して階段を登って自宅に帰ってきた。
母との当初の約束どおり、私が母の介護のために同居することになった。
現役最後の2年弱、東京での単身赴任時に自炊生活の経験はあったものの、それほど本格的なものではなかったが、ネットのレシピを自分流にアレンジして毎日料理に勤しみ、母には好評だった。

ただ、問題は単に母が生きていくためのフィジカルな問題だけではなく、母が愚痴・人の悪口・不足ばかりを口にするという精神状態(心)を何とかしなければ、という私の問題意識になった。
これは11月の再度の大腿骨骨折という事故の後にも残された問題である。
私は解決の糸口は仏教にあると考え、仏教の勉強をより強く深く進めている。

6. 実家の花壇撤去



母が退院して、私が同居した同じタイミングで実家の階下にカフェ・バーが新しく入ることになった。古い建物なのであちこち雨漏りするということで、実家の花壇も撤去して防水工事をすることになった。
この問題は私のオーナーに対する長年の懸案だったのだが、テナントの入居ということでオーナーが積極的に動いたのはラッキーだった。

7. 東京オリンピック強行



国内では新型コロナウィルスの感染第5波の最中、東京オリンピックが開催された。
多くの国民の反対の中、スガ政権はオリンピックは政権やその利権者たちによって強行されるが、果たしてその成果はあったか、その検証はちゃんとやらなければならない。
しかし、私は現代ではオリンピックの国民健康や国際交流という意味でもポジティブな意義はほとんどないと考えている。

8. 新型コロナウィルス感染第5波



新型コロナウィルス感染が始まって最大の感染拡大となった第5波。しかし、第4波が終息した後、図書館などの公共施設の規制がある程度緩和されたおかげで私のルーティンな生活も安定したものだったとも思う。
近代西洋医学に信頼を置かない私は、現行医療には近づかないが規則正しい生活の中で健康を満喫している。
秋以降の急激な終息の原因は未だ検証されていないが、政府が胸を張るワクチンの効果でないことだけは明らかである。

9. 総選挙で与党勝利



スガ首相が政権を放り出し、自民党総裁選が行なわれ、岸田総裁に代わり岸田政権の下での総選挙が行われたが、与党の勝利に終わった。
この結果は、われわれ国民が腐敗したアベ・スガ政権の継承を承認したというわけだが、その意味についてわれわれは本当に意識した結果だろうか。
実に不可解な選挙だった。

10. 母が2度目の大腿骨骨折で入院



母と同居して半年、11月12日朝に母が自分の部屋で転倒し大腿骨を再度骨折した。
母は救急車で搬送入院し、次の日に手術。リハビリ病院に転院したが、驚異的な回復をし12月29日に退院して実家に帰ってきた。
再び母との生活が始まった。

番外 宗教の実践と気づき
母との同居がきっかけだと思うが、人間の生きる意味とか苦しみと幸せとは何か、ということに深い関心を持つようになった。
そんなことから最初に「親鸞会」の活動に注目し研究したが、相対的幸福のむなしさから「無礙の一道(絶対の幸福)」を求めるというアプローチには納得できたが、無礙の一道への具体的体験を提供していないことが分かった。
そんな中、鈴木大拙の真宗の考察の中の哲学「絶対矛盾の自己同一」の中にその解を見つけることあできた。これは清沢満之に始まる近代仏教改革と西田幾多郎や鈴木大拙の活動のおかげだ。
仏教による人間の救済の理論と経験によって母を救うことができれば、と日々研究に取り組んでいる。
これらの仏教近代化の活動は真宗の伝統派や親鸞会でも無視されているようだが、私の生活に役に立つ教えであれば活用せざるべからずである。

このように日々改善を続ける生活を続けていけば大晦日・元旦も関係なく一日がありがたい輝く毎日を続けることができるのだ。

コロナ禍に広島原爆忌を迎えて

本日、76回目の広島原爆忌を迎える。



コロナ禍におけるオリンピックの開催と首都圏感染爆発という異様な風景を見ながら、76年前の歴史が二重写しに見えてくる。

いつも思うのは、広島・長崎の原爆でアメリカ側の原爆使用の正当性の論拠である「戦争を早く終わらせ、結果的に多くの人を救ったのだから仕方なかった」を日本人としてどう考えればいいのだろうか。

その破壊性の巨大さから、「広島や長崎に原爆を使用すればどのような惨禍が起こり得るかはアメリカの指導者たちは知っていた。だから原爆を使用したことは人道上許されることではない」と主張することは正しいのだろう。

しかし、一方で日本国内では陸軍を中心として未だ本土決戦が最有力(あるいは唯一)のオプションであった。そのオプションの実行は、日本の消滅であっただろう。

実際に2度の原爆の投下とソ連の参戦でようやくポツダム宣言の受諾可否の日本政府の議論が始まった。

御前会議で受諾可否の議論は伯仲し、天皇の裁定により受諾が決定された。

実際、終戦の詔書でも、

交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし

と述べ、原爆がいかに宣言受諾の大きな要因であったことが分かる。
そして、この天皇の聖断によってその後の被害を少なくすることができたのは明らかである。

今、われわれがこの歴史を振り返って学ぶべきは、何事かに対する固執が起こす災禍を未然に防ぐ方策であると思う。

76年前には立憲君主制の憲法により天皇の聖断により戦争を終了させることができた。しかし、現代の民主憲法下では、感染拡大中の東京でのオリンピックの開催に当って6月に天皇の懸念が伝えられたが、政府は法的意味を認めず無視してオリンピックを強行した。

その結果が、今、目の前で展開している感染爆発である。
オリンピックの開催と感染爆発の因果関係は、後に検証される必要がある。(実際に検証されるであろう)

それに対して、責任者たちは言い逃れをして前と同じく責任を負わないのだろうか。

いいかげんわれわれ日本人は歴史から学ばなければならない。

ローマ帝国のヨーロッパ征服と近代文明

岸田秀の「嘘だらけのヨーロッパ製世界史」ではヨーロッパの白人たちは古代には文明人たちから虐げられたことの復讐心が近代を生み世界を支配したというお話だった。



私はこの仮説をぼんやりと「そうなのか」程度に思っていたのだが、コヴァエウ・ノア・ハラリの「サピエンス全史」を読んでいて、なるほどそうなのか、と氷解したような気になった。

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ
河出書房新社
2016-09-08


ローマ帝国は地中海沿岸を広く支配したが、なぜアルプスを越え資源もなく野蛮な人々の住むヨーロッパの北部にまで征服したのか。ハラリによると地中海沿岸の資源を消費し続けたローマ人たち資源を求めてアルプスを越え、ドーヴァー海峡を渡ったが得られるものはなかった。しかし彼らは、現地の人々を労働力として使うことを思いついた。
ローマ人たちは北部の人間(白人)を帝国に運び彼らを奴隷として使った。

この時、ローマの人々は白人たちを徹底的に差別し融合することはなかった。
これは、中世にイスラム勢力がヨーロッパを占領した時、多民族と共生した例とは異なった対応です。
北部の白人たちのローマ人に対する恨みは民族のDNAに深く浸透し、レコンキスタ完遂の暁には、世界を征服し他民族を奴隷として使って資源を貪りつくした。
そのように考えると近代の発展は白人の復讐のプロセスそのものと言うことができるのではないだろうか。

近代文明により発展してきた現代文明も行き詰まっているが、この行き詰まりを打破するためには、自分自身の中にある差別意識に向きあうところから始めなければならないと思う。

ごあいさつ
日々の生活の気づきから人生の成熟を目指しています。

幸せ職場の考え方は、
幸せ職場
をご覧ください。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14
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