日々の気づきノートです。

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過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

仏教

澤木興道「禅とは何か(証道歌新釈)」



禅宗曹洞宗の僧、澤木興道の本は一時よく読んでいました。



最近、ふと思いついて読んでみたら、面白くためになる話があったので書き留めておきます。

禅とは何か 証道歌新釈
澤木 興道
誠信書房
2003-01-20


人間がありのままで眺めたものは、本当のものではない。人間を廃業しなければ、「法身覚了」とはいわれない。(p28)

ここで「ありのまま」と言っているが、実際には人間は現実を「ありのまま」に見ることはできない。常に人間が感覚したものは直ちに煩悩に脚色され「意識化」された結果でしかない。
「意識」なしの感覚を直接手にすることはできないので、「人間を廃業」しなければならない、ということになる。

「忍辱」ということは、いわゆる江戸ッ子の「我慢しろ、我慢しろ」という、あの心意気ではない。これは「無我」ということである。(p55)

ほうとうの(仏教の)真理は、「無常」「無我」「縁起」であり確として変わらない「自我」など存在しない。そのことが本当にわかれば、我慢・辛抱は必要ない。ただ、現状を受け入れて涼しく暮らしている、ということになる。

一般に、悟って悟りを忘れ、修行して修行したとも思わず、人のために尽くして人のためになったとも思わぬというのは、むずかしいことだ。(p64-65)

人に深切にすることはいいことだが、いい人と思われたいという思いの深切では救われない。これは無明であり煩悩ということになるから。
つまり、一生「無明・痴」を消す修行が人生ということになる。

われわれの一挙一動が、みなことごとく常精進なのである。無所得ということが仏法なのだから、無所得でする一挙一動が、みなことごとく常精進。(p167)

効率性を求める現代社会において仏道修行をするということは逆さまなのだが、本当は逆さまなのは近代文明のやり方こそが、逆さまなのだが。
そのことに気づくことができれば、一生精進で埒が開くのだが。

この煩悩に何も関係なしにただ坐る。それを只管という。…胸算用なしでやるということが仏教である。坐禅は何になるかというから、わたしは坐禅は何のもならないという。(p195)

そもそもシャカは期待や目的を持つな、という。今の人が問うようなパフォーマンスなんて端から考えもしない。考えた途端に悩み・苦しみに囚われる。
そもそも近代とは悩み・苦しみに囚われるための仕掛けのようなもんだった。
人間が悩み苦しみから解放されていた縄文時代や新大陸の先住民族は悩み苦しみのない人生を送っていたに違いない。
しかし、われわれが近代文明の中で生きている以上、その中で悩み苦しみから少しでも距離のおける生活を模索するしかない。そうすると、仏教というのが大きな意味を持ってくることがわかる、というものではないか。

一体、迷いとは何ぞやといえば眼鏡をかけていて眼鏡を探しておるようなものである。眼鏡をかけておりながら、おれの眼鏡をどこにやったどこにやった、なに、自分でかけておるじゃないか。そういうものである。そういうものである。(p196)

日常で、よくある話である。
観音さんは、別名「観自在菩薩」と呼ばれるが、まさに「我ニ有ボサツ也」(至道無難禅師)である。



私の言葉でいえば、「めいめい持ちの意識」すなわち、この宇宙から分裂した臭革袋一つの勝手な熱は、みなこれ幻想である、本当のものではない。そのわれわれのめいめい持ちのはからい、あるいは意識分別思量、これらを「了却」する。これでなけれなみなこれ法財を損じ功徳を滅するのである。(p207)

「めいめい持ちの意識」とは確とした「自分」がある、という意識のことだ。しかし、確とした「自分」なんてどこにもない「無常・無我」こそが真相なのだ。

一月普く一切の水に現じ、一切の水月に摂す(仙台の泰心院という寺の損翁、p224)

草の葉の露は世界のすべてを写すが、葉から落ちればすべて消滅する。一人の人間の命なんてものは所詮そんなものである。しかし一方で永遠の「いのち」のはたらきがあって、これがすべてを生かしめているのである。

久遠を生むものは今である。尽十方を生み出すものは今のここである。こういう意味において「一地具足す一切地」…一行一切行、一切一行である。(p226)

今があるからこそ過去があり未来がある。しかし、過去も未来も実在するものではない。ただ「今」だけが存在している。だから今の瞬間を精一杯生きることが自分の(瞬間の)意味である。瞬間の生、瞬間の精進である。

仏という字は一切の階級のとらわれをバラっとほどいたのだから「ほとけ」という。(p230)

日本語の「ほとけ」とは「ほどけ」から来たというそうだが、昔の人は偉いものだったと思う。
おかげでわれわれは「仏」の意味を言葉を通じて知ることができる。ありがたいことではないか。

仏法は まつ毛の上の つるしもの あまり近くて 見えぬなりけり(p230)

そもそも自分で自分は見えない。目で目は見えない。歯で歯は噛めない。
そもそも主体・客体に分けるというのは論理矛盾だ。
いのちに生かされていることに感謝するしかない。


ヘッセと仏教

最近、別のブログ「勇気の出る名言集」でヘッセの「地獄を克服する」という本を紹介していて、その仏教的な考え方に驚いている。

ヘッセは宣教師の家に生まれた。子どもの頃から文学的才能を発揮するが、その個性ゆえか学校になじむことができなかった。その経緯は後に「車輪の下」という文学に表されている。
彼の少年時代は深い悩みや苦しみに満ちたものであったようだ。これは四苦に悩まされたシャカの人生に重なるものだと思われる。

彼はまた「シッダールタ」というシャカの名を表題にした小説を書いているがおそらく仏教に深い関心を持っていたことが推察される。

ブログに引用した「地獄は克服できる」から仏教に関連するような箇所を取り上げて思ったことを書き留めておきます。



病気と、待たなければならないという状態とは、どんな場合でも私たちに、はっきりとした教訓を与える。とりわけ私たちはすべての神経症の苦痛からとくに強烈な教育を受ける。(「眠られぬ夜」)

「生老病死」という四苦の自覚こそがシャカの教えのスタートであったわけですが、ヘッセもこの四苦から真の意味を見いだしたことがはっきりここに書かれている。

人間の本性は、逆境に陥ったときにはじめてはっきりと現われてくる。たとえば、ある人間が精神的なもの、すなわち理想などどんな関係をもっているか、つまり味わったりつかんだりすることのできないすべてのものとどんな関係をもっているかも明らかになるのである。人間がそれまでもっていた物質的な支えをなくしたり、それがぐらついたりしたときにはじめて、その人間が精神的なものとどんなに純粋なつながりをもっていたか、精神的なものがその人にとってほんとうに価値があるものであったかどうかが明確になるのである。大きな試練の時代には、精神的なもののために生きるすべを知っている人よりも、精神的なもののためにいのちを捨ててしまう人のほうがずっと多いという不思議な経験をする。(「精神の富」)

先ほどの引用と同じくヘッセの人間の実存の四苦にこそ価値ありとする考えを表している。

人生とは楽しいものであるとか、楽しむためにあるなどと私は考えておりません。——人生とは、ひとつの事実であり、私たちができるかぎり覚めた意識によってのみ、それにより高い価値を付与することができる状態です。ですから私は、できるだけ多くのよろこびを得ることをめざして努力するのではなく、できるだけ意識して生きる努力をしています。そのため私は「人生の倦怠」に書いたような状態も味わいつくしましたが、それを憂さばらしなどでごまかそうとはしません。その上に私は、運命の定めるものは避けられないものだと確信しておりますので、禍いにも福にも心を動かされはしますが、やはり抵抗したりしようとせずに甘受します。(「断章3」)

これこそ仏教の「無常」について語っているようです。幸福・不幸と思われるような出来事は起るが、それは一時的なもので世界は常に流転している。そのことを知ったヘッセは、そのような現実に一喜一憂することなく、しっかり味わい成長・成熟していく方法を身につけたようです。

幸福

おまえば幸福を追いかけているかぎり
たとえ最も好ましいものを手に入れても
おまえは幸福になれる段階に来ていない

おまえが失ったものを嘆き
いろいろな目標をもち あくせくしているかぎり
おまえは平和の何たるかを知らないのだ

おまえがすべての望みをあきらめて
もはや目標も欲求も忘れ
幸福という題目を唱えなくなったときはじめて

あふれるほどの出来事ももうおまえの心に届かず
おまえの魂は安らぐのだ

私たちは、生が残酷なもので、死が避けられないものであることを、悲嘆を通してではなく、この絶望的な事実を味わいつくしながら、まず私たちの心に受け入れなくてはなりません。自然の残忍さや無意味さをすべて私たちの心に受け入れたときにはじめて、私たちはこの自然の生の無意味さと対決して、それを力ずくで意義のあるものにすることに着手できるのです。これこそ人間にできることのうちで最も価値のあることであり、人間にできる唯一のことです。そのほかのことは、家畜のほうがずっとうまくやっています。(「断章59」)

幸せを追い求めてもしかたがない。それは「無常」だから。
追い求めるのを止めて、四苦を受け容れ味わっていく。その中に人生の意味を感じることが可能になっていくのです。
モノゴトそのものに意味はない。モノゴトの意味を引っ付けているのは人間だけ。そのことに一喜一憂しているのが人間だが、人間以外の生き物はモノゴトをありのままに見て幸も不幸もない生を生きている。

気持ちで抑えてはならぬ!ただおまえの嫌悪の気持ちだけがおまえに苦痛を与えるのだ。それ以外には、おまえに痛みを与えるものはない。苦しみは苦しみではない、死は死ではない、おまえが苦しみを苦しみと考え、死を死と考えさえしなければ!(「日記の一部」)

生老病死の四苦も結局人間の意識が作り出したものでしかない。そこを知ることが仏教も大きな焦点です。
苦しみを生み出しているのは自分自身であることに気づき、すべてのモノゴトを受け容れる。それがそのまま問題の解決になっている。

安らぎなく

魂よ おまえ 臆病な小鳥よ
くりかえしおまえは問わずにはいられない
こんな多くの嵐のような日のあとに
いつ平和が来るのか安らぎが来るのか と

おお 私は知っている 私たちが
地下で静かな日々を送るやいなや
新たなあこがれのために おまえの
好ましいどの日々も苦痛になることを

安らぎを得るやいなや おまえは
新たな苦しみを求めるだろう
そして星になりたてのおまえは
焦燥に駆られて宇宙を運行するのだ

この世のものはすべては相対的である。苦痛があるから安らぎがある。
人間は安らぎにいて新たな苦しみを求める。これが「気紛らせ」の原点になる。

このことが、彼の生涯の結論として、彼の全身全霊を明るくした。「運命に身をゆだねる!」ということが。これをいったん行ったら、いったん自己を放棄したら、運命に身をまかせたら、運命に服従したら、いったん自分のあらゆる支えと、足の下のすべての堅固な地盤を捨ててしまったら、自分の心の中の導き手の言葉だけに完全に耳を傾けたら、何もかも得られたのだ。そのときには、何もかもうまくゆくのだ。何の不安も、何の危険ももうないのだ。(「不安を克服する」)

これは「無我」について語っている。そもそも自我というものはないのだが、それを有りとして自分で自分を作り出してキリキリ舞いしているのが人間の一生だ。
「自己を放棄」するとは、「無我」に気づき、われわれに変化を与えてやまないものに身を委ねる。これこそが仏教の生活ということになる。

世界はたえず生れつづけている。世界はたえず死につづけている。すべての生命は神の吐き出した息であり、すべての神は神が吸い込む息なのだ。それに抵抗しないことを、身をゆだねることを学んだ者は、楽に死に、やすやすと生れるのだ。抵抗する者は、不安に苦しめられ、つらい死を迎え、いやいや生れるのだ。(「不安を克服する」)

宇宙は不生不滅である。
ヘッセはここで輪廻思想を採用している。そうなると「神」というのもキリスト教の神ではなかろう。
シャカの「縁起」は輪廻思想とも共存できるような立場を取っている。宇宙を一刻の休みもなく働かせ続けている働き(縁起)に身を委ねる以外の生き方というのは、そもそもあり得ないのだ。

このように、この精神は若く、愚かで、滑稽なのだ。その精神の発明品のひとつが時間である。ひとつの精妙な発明品だ。自分をますます激しく責めさいなみ、世界を、複雑でめんどなものにする、ひとつの精巧な機械だ!人間は、望み求めるすべてのものから、この時間によってのみ、この時間、このばかげた発明品によってのみ、引き離されていたのだ!時間こそ、人間が自由になりたいと思ったら、何よりもまず捨てなければならない支えのひとつ、松葉杖のひとつなのだ。(「不安を克服する」)

時間も仏教では無いという。唯一あるのは「今」この瞬間だけ。過去や未来は人間の意識の中にしかない。しかし、人間はその意識を活用して「時間」という概念を作り出した。そして、すっかり「今」を空洞化させてしまった。
その結果、ありもしない「時間」に引きずられ毎日アタフタ駆けずり回っている。
「今」に集中して生きていくならば、何も問題は発生しないだろう。

時間はひとつのイリュージョンであること、人生のすべての状況、すべての理想、すべての時期は、型どおりに几帳面に順を追って進行するものばかりでなく、因果関係をもって互いに結ばれているものばかりでなく、これらすべてのものは、永遠の、時間に関係のない存在をもつということ、それゆえ、「神の国」、すなわち、遠い未来に到達することのできる永遠に続く至福のものと思い描いている理想は、ことごとくあらゆる瞬間に体験し、実現しうるものだということである。(「不可能なことを新たに試みる!」)

実に仏教的な言いぶりだ。今の瞬間にすべて(永遠の時間・無限の空間)が入っているこの瞬間をつかめばすべてを手にすることができるのだ。

今

佐々木閑「犀の角たち」

佐々木閑さんは、臨済宗(禅宗)の花園大学の教授。福井の真宗のお寺に生まれたが、京大の工学部に進んだ後、文学部哲学科にコースを替えてインド哲学・仏教の研究へと進んだ。
私とはほぼ同年代だが、やはり私と同じようにモノゴトの真相を知りたいという欲求が強い人なのだと思う。

佐々木さんは、シャカの説いた仏教(原始仏教)と現代物理学とを結びつけることを試みている。

我々の世界は、観測した時にだけ明確な姿を現わすが、観察していない時のはなにがどうなっているのか分からない。それは「可能性の重なり合った状態として存在している」。これがほんとうの姿であり、それ以外にはこの世界を理解する方法はない。(p38)

われわれは、まず宇宙があってその中に我という存在があると思い込んでいるが、それは実は成り立たない。我が観測した時に初めて宇宙が立ち上がっているのだ。

二重スリット実験は、その前提を打ち砕いてしまう。測定装置を点けなければ電子は波であり、付ければ粒子になる。我々が行う観測という行為に応じて、世界の有様が変わってくる。世界は、我々が何をどう観測するかというそのやり方に応じて、様々な顔を見せるのである。(p46)

物理的現象は、われわれの観察の仕方によって違った姿を現わす。ある時には粒子(空間的)別の時には波動(時間的)というように。
しかし、現象は空間と時間を分けることはできない。だから無理やりに空間と時間を分けようとするとそのように違った姿を現わすことになる。

相対性理論は、現象観察の主体を神から人間に移し替えた。人間という特定の生物が、光を媒介として現象を観察する場合に現れる世界像を、ローレンツ変換や非ユークリッド幾何学などのあたらしい数学的武器を用いて記述したところに意味がある。(p50)

アインシュタインの特殊相対性原理は光の速度が観察者の立場からは同じである、というところから導き出されたが、これも時間が絶対的なものではなく相対的なものであることを明らかにした。
つまり、世界は観察者のありようによって相対的に存在しているのだ。

量子論は、観測という行為における、観測対象と観測者の関係を根本的に変えてしまった。両者は線を引いて区分けすることなどできない。観測というひとつの行為になは、観測の対象と、観測者の両者が不可分のワンセットで含み込まれているのである。電子は重ね合わせの波の状態で存在していると言ったが、量子論の立場から言うと、観測対象と観測者を区分けすることはできず、全体がセットになって世界を作っているのだから、正確には、「電子および、そのまわりの世界は、可能性の重ね合わせの波として存在している」と言わねばならない。(p59)

われわれはモノを自分とは別の対象として見ているが、実は自分とモノとはセットとして成り立っている。
しかしシャカはすでに二千年以上前にこの原理を見抜いていて、縁起は切れ目なく宇宙と完全に一致していると考えていた。われわれは宇宙とピッタリ一致しているから本来は分けることはできない。
しかし、西洋近代科学で自分とモノとが分けられるという思想を採用してしまった。その結果、人間は宇宙を搾取し、修復不能な状態にまで陥ってしまっている。

世界は無数に分岐し、それに伴って私自身も分岐したのである。驚くなかれ、今の我々は無数に枝分かれした世界のひとつで生息している我々なのであって、他の世界には他の世界の我々がいるのである。(p61)

こんなことがあるのかしらん。現実にはありえないような話だが、死ぬときにはこの様子が見えるかもしれない。楽しみにしておこう。

量子論は最初から、観察者の自己同一性がもはや成り立たないと語っていたのである。しかし初期の量子論学者は、無意識ながらそれを拒絶した。自分は自分だ。それが波のような存在で、しかもどんどん分岐して複数の世界に分かれていくなど、一体どうして信じられようか。しかしこうした直覚の抵抗も今や土壇場。科学の人間化は、我々の常識的合理性を次々に打ち砕いて、とうとう自分の同一存在性まで消し去ろうとしている。(p62)

ここで、科学と仏教が完全に一致する。すなわち「無我」である。確固とした自己というものはないのだ。しかし、全体と調和し一切の隙間のない全体としての実在(いのち)が生き生きとして活動している。

「我々の世界はこうあれかし」という空蝉の希望ではない。現実の自分たちが置かれているこの世界の真の姿を知る、その一点が科学の命綱である。(p62)

人類が生息している間に、この真理に到達することができるかどうかは分からない。しかし、仏教によって、そのような真理に到達することは可能なのだ。

梶山雄一「般若経」その3完

最初のシャカの説いた仏教と、その後に展開した大乗仏教。その関係をどのように自分自身で消化して、真の仏教に至るか、という問題が私の現今の課題の一つとなっている。
この本では、私をその核心にかなり近づかせてくれた。

シャーキヤ・ムニが世に出たころ、インドの知識人、貴族たちは輪廻という地獄の啓示にさいなまれていた。もともと、ひとは死後ヤマの楽園に昇天して永遠の快楽を享受する、という楽天的な死生観をもってインドに入ってきたアーリア人にとって、ひとは昇天した後もそこで再び死に、生と死を無限にくりかえすのだ、という新思想の発展は恐るべき衝撃であった。前6世紀ころにはこの思想はアーリア人の世界に定着し、およそ思想家、宗教家といわれる人々はまず第一にこの問題に腐心しなければならなかった。(p192-193)

輪廻説は、インドで生まれたという。
そのインドで生まれたシャカは王族の子に生まれがら人間の本性(四苦)に当面し出家し、「縁起」という原理(仏教)を発明した。
ところで、私にはインドの古来の「輪廻」とシャカの発見した「縁起」が遠く離れたものであるようにも思えない。物質やエネルギーのように目に見えるものが永遠に再循環されるように、(目に見えないとはいえ)心も永遠に再循環されるという仮説はあり得ない話ではないと思う。
目に見えないからといって、死ねば何もなくなるという仮説を信じる多くの人ほどそんなのん気でいいのか、と思ってしまう。

輪廻説はつねに業報説と結びついて説かれた。(p194)

これが、シャカの発見だったのだ。シャカは輪廻を肯定も否定もしなかったが(無記)、それよりも大きい「縁起」というシステムを想定して後世に残したのだ。

シャカの没後、「縁起」という科学的思考はインド人の潜在意識に潜む「輪廻転生」には打ち勝てなかったのだろう。シャカの生んだ初期の仏教は埋没の危機を迎える。
そのような時期に龍樹をはじめとする思想家が出て、仏教の再構築を図った大乗仏教の発明である。

大乗仏教になると一つの異変が起こる、善根、つまり幸福の原因となる善い行為を自己の幸福以外の方向へふりむける、廻向するという思想があらわれたのである。この「ふりむけ」の思想には二つの段階がある。第一は、善根を自己の幸福への方向から無上にして完全なさとり、仏陀の全知者性に向かって方向転換させる廻向であり、第二は、自己の善根を自己の幸福へではなく、他人の幸福、とくに至福としてのさとりにふりむける廻向である。(p195)

よく大乗仏教は「利他」を説くというが、私はこの点に関しては疑問を持つ。梶山氏もそのように解釈されているが、私の考える大乗仏教はインド思想の根幹にある「梵我一如」の思想を仏教に持ち込んだ(如来蔵思想)ことだと思っている。
阿弥陀仏が人間に回向して人間を救済するという思想は、親鸞の「悪人正機」のような自分を悪と見抜ける人には有効だが、自分が「善人(偽善)」とするような人には無効である。

縁起、つまり、ものはすべて多くの原因、条件に縁って生起する、という理論はシャーキヤ・ムニが菩提樹の下で瞑想して発見した真理であった。ナーガールジュナはこの依存性の真理を空の思想と離れることにできないものとして結びつけた。それは原始仏教にも、部派仏教にも、明らかな形では存在しなかった独創的な思想である。しかし、それはナーガールジュナの新発見とはいえない。『八千頌』のなかで、ダルモードガタはサダーブラルディタに同じことを説いていたのである。(p210)

龍樹は「縁起」をアウフヘーベン(止揚)して「空」という思想を発明したが、その思想はすでに龍樹の前に提示されていたという。
学問的にはこういうことも重要なのだろうが、私たちのように仏教の実践に集中する身にとっては関係のないように思う。

真相(真如)は不動であって、真相こそ如来にほかならないからです。…生じないものはきたり行ったりしません。しかも、生じないものこそは如来にほかならないのです。…去来は知られません。しかも、空性こそは如来にほかならないのです。(p211)

如来を真相とすれば超越者(ブラフマン)を原点に置くということに他なりません。これはシャカの否定となる。そして「空性」も如来だという。
私は「空」は縁起が現象する「場」だと考えているが、梶山先生は「空性」を如来だという。
確かに、「空」をすべての働きという意味での「空性」という言葉でとらえれば如来ということになるのかもしれない。

すべてのものが実在性を離脱し、空であり、原因や条件に依存してのみ現象していることが「ものの本性」(法性)である。そして如来といい、知恵の完成というものはものの本性の呼び名にほかならない。(p216)

まさに「モノの実在性」ではなく、宇宙の法則は「縁起」こそが「本性」であり、そのことを知ることが智慧というわけである。

『八千頌』が理論的に縁起を説くのは上記の3ヵ所においてだけである。しかしそれによって、『八千頌』は、すべて縁起したものは空である、という思想をナーガールジュナに手わたした。そして縁起即空の論理を完成することがナーガールジュナの仕事となったのである。(p217)

『八千頌』では「縁起」についてわずか3ヵ所だけで説いているそうだ。しかし、それを後世の龍樹が発見し、大乗仏教に展開した。
そのような事情をすべて知っているわれわれがどのような思想を採用するかは自由自在である。しかし、それを見分ける「智慧」で当たらなければ正しい見解を得ることはできません。

梶山雄一「般若経」その2

「輪廻転生」というのは、古代からのインド人の根っこに植え付けられた伝統的な思想らしい。
古くからこの思想に溺れてきたインド人だが、日本人もこの思想に囚われていた。これが伝来した仏教によるものか、あるいは日本古来のものかは定かではない。

般若経 空の世界 (講談社学術文庫)
梶山 雄一
講談社
2022-10-13


輪廻と解脱と、対立した二つの世界があるのではない。あるのはただ一つの世界を二つに区別する彼の思惟のような転換が可能なのは輪廻に輪廻の本体がなく、解脱に解脱の本体がなく、空であるからである。輪廻の本体とは、空なる一つの世界を輪廻として認識し、執着する人間の思惟の所産にすぎなのであって、そこほかのどこにもありはしない。(p171)

おそらく宇宙法則には本体がないのだろう。しかし輪廻というのはシャカの「縁起」とも関係があると思っている。輪廻を「縁起」の一種だと考えるとすっきりする。輪廻も縁起も完全無欠だ。自分のなしたことが全体に影響をあたえて、むぐりめぐって自分に返ってくる。
論理的にも何も問題はない。
「解脱」とはそのカラクリを見抜き、その原理に従って生きることになるだろう。

(『維摩経』第八章「不二の法門にはいる」)
27 認識によって、二の対立が現実化するが、認識のないところには二はない。それゆえ、(認識の結果とした)承認したり拒否したりすることのないことが、不二にはいることです。(p174)

もともとは一であった。それが二つに分かれ相対性の世界が立ち上がった。
総体的世界によって人間の意識が生まれたわけだが、そのおかげで人類は生物界の頂点に立つことができた。しかし、そのことによって逆に人間は悩み・苦しみを感じるようになった。
そして相対性を見抜き、承認も拒否もせず、ただ生きることによって輪廻の輪から解脱することができる。

過去・現在・未来にわたって恒常であり、それ自身として、他のものに依存することなく自立的に存在する本体とは人間の思惟の世界における概念としてしか存在しない。現に実在するものは、各瞬間に変化する無上なものであり、他の多くのものを原因として、他のものに依存してのみ現象する、他律的なものである。(p175-176)

過去・現在・未来とは概念(コトバ)である。しかし現実は確実に「縁起(輪廻)」により統御されている。しかし、それは実在しているわけではない。だから過去は過ぎ去り、未来は人間のアタマの中にしかない。実在しているのはこの瞬間だけだ。
世界とは概念(コトバ)であるが、それを支えているのは今生きている人間の意識なのだ。

ものをことばと認識によってとらえないこと、いいかえれば、ものにはことばと認識のさし示す本体が空であること、それを知ることは無生法忍という空の知恵である。そして知恵の完成とは空性の知恵の完成にほかならない。(p178)

コトバによる幻想を実体だと誤ってはならない。「空」という原理を見抜くことだ。

知恵の完成はことばではとらえられない、ということは、それがことばでないものによってとらえられることを意味しない。ことばが空であることによってことばも知恵の完成と不二である、ということなのである。(p179)

ところが「空」という原理もコトバに過ぎません。それを実在と見誤るべからず。すべては「空」性のなせるわざなのだ。

何が六種(六波羅蜜)が完成への道の本質なのであるか、それは無執着ということである。(p184)

「空」性で成り立っている世界を実在と見ず、その働きをあがめつつ執着しないというのが解脱への道となる。

彼がどれほどすぐれた道徳を守り、いかにそしられ、ののしられてもそれを忍耐し、いかなる眠けや遅鈍さにも負けないで努力し、いかに長いあいだ四禅の瞑想に沈潜しようとも、もし彼が少しでも認識への執着をいだいてそれを行うならば、それはさとりに導かない。(p184)

日本の在来仏教でも厳しい修行を課している宗派はたくさんある。それらの宗派も執着からの解脱を説くが、「解脱するために努力」するということ自体が矛盾だ。だから、解脱を目指す人間は陥穽に落ちる。
これが宗教の困難の根本問題である。

知恵の完成は(他の)五つの完成に先立つものであり、その案内者であり、指導者である。(p186)

智慧は学びと実践により初めて効果を発揮する。

その実践とは、

施与、道徳、忍耐、努力、瞑想は、知恵の完成(伴われること)なくしては完成という名前を得ることはなく、生まれつきの盲目の人と同じである。(p187)

実践の途中においても最終的な「完成」に至れなければ何にもならない。至れない宙ぶらりんの状態でも日々完成に向かっての歩みを止めてはならない。
ごあいさつ
日々の生活の気づきから人生の成熟を目指しています。

幸せ職場の考え方は、
幸せ職場
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今宿 葦
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