禅宗曹洞宗の僧、澤木興道の本は一時よく読んでいました。
最近、ふと思いついて読んでみたら、面白くためになる話があったので書き留めておきます。
人間がありのままで眺めたものは、本当のものではない。人間を廃業しなければ、「法身覚了」とはいわれない。(p28)
ここで「ありのまま」と言っているが、実際には人間は現実を「ありのまま」に見ることはできない。常に人間が感覚したものは直ちに煩悩に脚色され「意識化」された結果でしかない。
「意識」なしの感覚を直接手にすることはできないので、「人間を廃業」しなければならない、ということになる。
「忍辱」ということは、いわゆる江戸ッ子の「我慢しろ、我慢しろ」という、あの心意気ではない。これは「無我」ということである。(p55)
ほうとうの(仏教の)真理は、「無常」「無我」「縁起」であり確として変わらない「自我」など存在しない。そのことが本当にわかれば、我慢・辛抱は必要ない。ただ、現状を受け入れて涼しく暮らしている、ということになる。
一般に、悟って悟りを忘れ、修行して修行したとも思わず、人のために尽くして人のためになったとも思わぬというのは、むずかしいことだ。(p64-65)
人に深切にすることはいいことだが、いい人と思われたいという思いの深切では救われない。これは無明であり煩悩ということになるから。
つまり、一生「無明・痴」を消す修行が人生ということになる。
われわれの一挙一動が、みなことごとく常精進なのである。無所得ということが仏法なのだから、無所得でする一挙一動が、みなことごとく常精進。(p167)
効率性を求める現代社会において仏道修行をするということは逆さまなのだが、本当は逆さまなのは近代文明のやり方こそが、逆さまなのだが。
そのことに気づくことができれば、一生精進で埒が開くのだが。
この煩悩に何も関係なしにただ坐る。それを只管という。…胸算用なしでやるということが仏教である。坐禅は何になるかというから、わたしは坐禅は何のもならないという。(p195)
そもそもシャカは期待や目的を持つな、という。今の人が問うようなパフォーマンスなんて端から考えもしない。考えた途端に悩み・苦しみに囚われる。
そもそも近代とは悩み・苦しみに囚われるための仕掛けのようなもんだった。
人間が悩み苦しみから解放されていた縄文時代や新大陸の先住民族は悩み苦しみのない人生を送っていたに違いない。
しかし、われわれが近代文明の中で生きている以上、その中で悩み苦しみから少しでも距離のおける生活を模索するしかない。そうすると、仏教というのが大きな意味を持ってくることがわかる、というものではないか。
一体、迷いとは何ぞやといえば眼鏡をかけていて眼鏡を探しておるようなものである。眼鏡をかけておりながら、おれの眼鏡をどこにやったどこにやった、なに、自分でかけておるじゃないか。そういうものである。そういうものである。(p196)
日常で、よくある話である。
観音さんは、別名「観自在菩薩」と呼ばれるが、まさに「我ニ有ボサツ也」(至道無難禅師)である。
私の言葉でいえば、「めいめい持ちの意識」すなわち、この宇宙から分裂した臭革袋一つの勝手な熱は、みなこれ幻想である、本当のものではない。そのわれわれのめいめい持ちのはからい、あるいは意識分別思量、これらを「了却」する。これでなけれなみなこれ法財を損じ功徳を滅するのである。(p207)
「めいめい持ちの意識」とは確とした「自分」がある、という意識のことだ。しかし、確とした「自分」なんてどこにもない「無常・無我」こそが真相なのだ。
一月普く一切の水に現じ、一切の水月に摂す(仙台の泰心院という寺の損翁、p224)
草の葉の露は世界のすべてを写すが、葉から落ちればすべて消滅する。一人の人間の命なんてものは所詮そんなものである。しかし一方で永遠の「いのち」のはたらきがあって、これがすべてを生かしめているのである。
久遠を生むものは今である。尽十方を生み出すものは今のここである。こういう意味において「一地具足す一切地」…一行一切行、一切一行である。(p226)
今があるからこそ過去があり未来がある。しかし、過去も未来も実在するものではない。ただ「今」だけが存在している。だから今の瞬間を精一杯生きることが自分の(瞬間の)意味である。瞬間の生、瞬間の精進である。
仏という字は一切の階級のとらわれをバラっとほどいたのだから「ほとけ」という。(p230)
日本語の「ほとけ」とは「ほどけ」から来たというそうだが、昔の人は偉いものだったと思う。
おかげでわれわれは「仏」の意味を言葉を通じて知ることができる。ありがたいことではないか。
仏法は まつ毛の上の つるしもの あまり近くて 見えぬなりけり(p230)
そもそも自分で自分は見えない。目で目は見えない。歯で歯は噛めない。
そもそも主体・客体に分けるというのは論理矛盾だ。
いのちに生かされていることに感謝するしかない。