日々の気づきノートです。

姉妹ブログ「勇気の出る名言集」を始めました。
過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

2022年03月

ウクライナ戦争停戦協議で進展

ロシアとウクライナの停戦協議で進展があったという。



ウクライナがNATOに加盟しないで中立化することについての提案があり、ロシアが理解を示し、ロシアはキエフ周辺の戦闘を縮小するという。

冷戦語の地域の安全保障の枠組み作りのケースとして興味深い。

ロシアとはしては、やみくもに西側の軍事同盟(NATO)が広がり自国の国境を接するというのは許容しがたい、というのはそれなりに理解できる。



そこで、参考になるのがウクライナがフィンランドのような中立的な立場を取るという選択。



ウクライナとしては難しい立場だが、国が難しい場所になるのだから仕方がない。

ここでウクライナが提案しているという多国間の安全保障体制の構築というのは興味深い。
大戦後、日本は講和を急いで部分講和を急ぎ、アメリカと安保条約を結ばされたおかげで、アメリカの属国扱いにされた上、未だにロシアと講和ができていないという道を歩んでいる。

ウクライナの提案はなかなかいいんじゃないかと思ったが、一方では、キエフ周辺でのロシアの侵攻は止まないという報道もある。

ロシアも国際・国内情勢共に時間をかけられる状況にない。早く収束に向けて動くほうがいい結果をもたらすだろう。

戦争もNATOの無制限の拡大も望ましくない。地域での安全保障のあり方について一刻も早く議論を開始するべきだ。

日本の同じでいつまでも「日米同盟」の一つ覚えではなく中国・台湾・朝鮮半島・ロシアを含めた極東地域全体の安全保障の枠組み作りに動き出すべきだ。
これは未だ終わっていない全面講和を実現する(すなわちアジア・太平洋戦争を終結させる)ということになる。

実在するものが表現を強制する

谷口雅春「生命の実相」を継続的に読んでいるのだが、時々びっくりするような言葉に出会うことがある。
先日も第13巻の倫理篇上でこんな言葉に出会った。

「値打」というものは処と場所を超越して存在する「本当にあるもの」の表現でありまして、その表現を要求する「当為」というのであります。

生命の實相 13 倫理篇上〔頭注版〕
谷口 雅春
日本教文社
1963-05-06


「当為」というのはドイツの哲学者カントによる哲学用語です。

ネットの辞書では、

あること(存在)、あらざるをえないこと(自然必然性)に対する。 カント倫理学では、端的に善なる行為そのものを命令する当為(定言的命令)と、他の目的を実現する手段としての行為を命令する当為(仮言的命令)が区別されている。 新カント学派では、真・善・美などの価値の当為性が主張された。

と、説明されている。

谷口雅春氏はさらに、

当為は本当にあるものが表現を強制してくる。(p152)

と言い、「当為」は「実在」そのものであるという。

また、これこそ「真理」なのだという。

われわれは善をなせという要求が内部から出てくるというは、善というものは、すでにあるものなんであって、すでに本当にあるものが出てくるのですから、それは強いることはないのです。すでに善があってそれが出てくる。その善というものが存在の本体であり、自分の本体なのです。(p155)

だから、実在から出てくるものをそのまま抑えずに実行(表現)していればよいのです。
それが真の「自由」であるのです。

本当の人格の自由というものは、自己の内部から「これをなせ」と迫ってくる「当為」をそのまま実行して、その実行が砕けてしまわないということが必要なのであります。(p158)

だから人間の生き方で一番いいのは実在からでてくるままに生きて行くのがいい。

善を本当に発揮すれば物質界まで働いてくるのです。自然界まで働いてくるのです。自然界というものは、生命がかつて歩んだ痕跡であり、レコードですから、そのままではその通り繰り返しますけれども、人格の自由を発揮する邪魔になるように法則は、われわれは自分の心の力で自由に把握することができると説き、それを実証しているのであります。(p165)

当たり前の「善」をあえてなさないことを「悪」という。

「悪」とは、自由に対する連絡隠蔽あるいは、束縛および隠蔽に対する反抗が「悪」という姿になって出てくるのであります。(p170)

実在から出て来ることをわざわざ隠蔽し遮断することが「悪」で、どんな人でも「悪」をなすときには、咎めの感覚を覚えるのだ。

まことに「人」は肉体的な固体ではなく、天地に鳴り出たところの偉大なる存在――それが本当の「人」である。仏教ではこれを仏性が本当の「人」であって肉体はその仮面にすぎないのである。(p174)

人間存在とは実在(存在)が宇宙に鳴り出たということになるのです。「存在」が「表現」している、というのが人間の本来の姿なのだ。ところがそれをあえて曲げて悩み・苦しんでいるというのが人間の別の姿でもある。
しかし、そのような姿(経験)は悩み・苦しみを通して真の実在に繋がる機会を提供してくれているのでもある。このように「存在(神あるいは仏性)」というものは実に至れり尽くせりの有難いものなのだ。

ウクライナ戦争は他人事ではない

先週土曜日(3月26日)朝日新聞に佐伯啓思氏の「(異論のススメ スペシャル)「ロシア的価値」と侵略」という記事が掲載された。



IMG_2011

佐伯氏は今回のロシアの暴挙に対して考えをめぐらす。
西洋近代の周辺におり、社会主義という立場を取ってアイデンティティを保ち大戦後は東西冷戦という構図を一方に築いてきたロシア。
冷戦終了後、アイデンティティを失ったロシアは新しいアイデンティティを模索しながら見つけることができない状態であった。
ロシアが民族として確立してきた「ロシア的なもの(大地と憂愁、神と人間の実存、正教会の神秘主義…)」は冷戦後の西欧諸国が編み出して来たグローバル資本主義とはなじまない。
そこにウクライナの離反を受け容れることができなかった。

佐伯氏は、そのようなロシアと似た状況にいるのが日本だと言う。

ロシアが、一方で西洋近代から圧倒的な影響と脅威にさらされつつも、半ばアジアに属して、独自の「ロシア的なもの」を模索したという歴史は、実は、日本とも無縁ではない。日本の近代も西洋の脅威にさらされつつも、同時にアジアの一員であるという意識を放棄できなかった。西洋近代の価値がうまく機能しない今日、日本もまたその「精神的な風土」を問われているのではなかろうか。にもかかわらず、戦後の日本は、そのような問いを発することもなく、米国流の歴史観、世界秩序観の信奉者であった

自身の「精神的風土」を客観化して観察できない人間が精神を病むように集団としても精神を病むようになる。現在の日本全体の機能不全は、日本全体の神経症のようにも見える。

今日、冷戦後のアメリカ流グローバリズムの表皮が剥がれつつあるなかで、われわれはむき出しの「力」が作動する世界へ移行しつつある。ユーラシア大陸の中央部と東西の端はかなり異なった文明を持っている。西洋、アジア、ユーラシアの大国を舞台にした文明の衝突が起きる時、日本は、そのはざまにあって、前線に置かれる。その時、日本はどのような立場をとるのだろうか。状況次第では、日本も他国からの攻撃の可能性を排除することはできない。今回の事態は決して他人事ではない。果たして、われわれは、火炎瓶を作ってまで自衛しようとするウクライナの市民のように命がけで立ちあがるのであろうか。

日本人あるいは日本全体が神経症にならずに毎日平穏のごとくに生活しているように見えるが、一旦ことが起これば、みんなぼんやり成り行きを眺めるようなことになりはしないか。
私は、もし日本がウクライナのように理不尽な攻撃を受けるようなことがあれば、是非に及ばず火炎瓶や竹槍で戦うつもりでいる。

西洋近代文明が機能せず「正義」が社会に機能しなくなった現在、高齢者の死に方として理不尽な戦いに抗議するという死に方はいいのじゃないか。ただし、ナショナリストの掛け声に踊るのではなく、「愛国者」として単独行動を取るつもりだ。

エピクテトス「人生談義」その9

エピクテトスの「語録」第4巻の第2章から4章までの言葉から。

なにごとも無償ですむわけではなく、同じことをしていなければ、人は以前とは同じではなりえない。(p236、4.2)

「縁起」あるいは「諸行無常」でわれわれの人生は流転そのものである。しかし、自分が確として実在するなんて思い違い(無明)するところから人間の悩みとか苦しみが起きることになるのです。

どんなことにおいても自分の善を守れ。そして、ほかのことについては、理性的に用いるかぎり君にあたえられたものだけで満足するのだ。(p241、4.3)

善因善果、悪因悪果これほどはっきりしたことはないのに人間はこれほどはっきりした真理から目を逸らせようとする。

読書を気晴らしかなにかの学識を得るためだけにするのであれば、君はとるに足らないあわれな人間だということになる。だが、読書をしかるべき目的に向けるのであれば、それは心の平安を得ること以外の何であろうか、また、もし読書が君に心の平安をもたらさないのであれば、それは何の役に立つのだろうか。(p242-243、4.4)

ちなみに、新明解国語辞典の「読書」では、

『新明解国語辞典』(第七版)
どく しょ【読書】(自サ)〔研究調査や受験勉強の時などと違って〕一時(イットキ)現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり 人生観を確固不動のものたらしめたり するために、(時間の束縛を受けること無く)本を読むこと。〔寝転がって漫画本を見たり 電車の中で週刊誌を読んだりすることは、本来の読書には含まれない〕

と踏み込んだ解説をしている。エピクテトスの言いたかったことだ。

起きていることに対して不満に思ったり、むかついたりしてはならない。(p247、4.4)

すべては「縁起」によって引き起こされた結果なのだから、それに不足を言ってみたところでどうしようもない。
「むかついたりしてはならない」という翻訳は現代的でいい。

君はただ一般的な問題として、「何が私のものであり、何が私のものでないのか、私には何があたえられているか、神は私が何をすることを望み、何をすることを望んでおられないか」ということを記憶していることだ。少し前に神が君に望んでおられたのは、余暇をもち、自分と対話し、これについて書いたり、読んだり、話を聞いたり、準備をすることだった。(p248-249、4.4)

私が日々行っていることはまさに「余暇をもち、自分と対話し、これについて書いたり、読んだり、話を聞いたり、準備をする」ことなのである。

幸福に至る道はひとつしかない――このことを朝も昼も夜も心得ておかねばならない。意志と関わりのないことは放棄し、なにものも自分のものであるとは考えず、すべてを守護霊や運にまかせ、なにごともゼウスが定めた君たちの監督に委ねて、ただひとつのもの、すなわち自分のものであり、なにごとについても妨げられないものに自分を捧げる。(p251-252、4.4)

何回となく繰り返されるエピクテトスの真理である。

どこにいても神との距離は等しいのではないか。神々はあらゆるところから、起きていることを同じように見守っているのではないか。(p243、4.4)

そもそも神と人間とは空間的な関係ではない。神とはあまねく普遍的に「存在している」ものであるから。すなわち「神」とは「存在」の別名である。

君はただ一般的な問題として、「何が私のものであり、何が私のでないのか。私には何が与えられているのか。神は私が何をすることを望み、何をすることを望んでおられないか」ということを記憶していることだ。(p248-249、4.4)

実は、神が私に臨んでいることを記憶しておく必要はない。なぜなら神の望みとは目の前の現実であるからだ。

幸福に至る道はひとつしかない――このことを朝も夜も心得ておかねばならない。意志と関わりのないことは放棄し、なにものも自分のものであるとは考えず、すべてを守護霊や運にまかせ、なにごともゼウスが定めた者に委ねて、ただひとつのもの、すなわち自分のものであり、なにごとにも妨げられないものに自分を捧げる。そして、目的を定めて書物を読み、そのように書き、そのように聞くことだ。(p251-252、4.4)

またしても繰り返される、エピクテトスの真理である。

どこにいても神との距離は等しいのではないか。神々はあらゆるところから、起きていることを同じように見守っているのではないか。(p253、4.4)

だって、「神」は「存在」の別名なのだから。

クリップスのモーツァルトの交響曲

先日はヨーゼフ・クリップスのベートヴェン交響曲全集について紹介しました。



その後、クリップスはモーツァルトの交響曲も積極的に録音し、彼の最晩年1972年6月~1973年9月に第20番から41番の後期交響曲をアムステルダム・コンセルトヘボウで録音している。

動画を探すと35番のハフナー以降では36番のリンツ以外はすべて聴くことができる。
クリップスではリンツが一番聴きたいが残念。でも、すべて素晴らしいとしか言いようのない演奏だ。

花見の始まる週末の一日にあえて、こころ穏やかにモーツァルトの音楽を楽しみたい。

35番ハフナー。実にエレガント。



38番プラハ。第一楽章の弦楽の躍動感がたまらない。LP音源だが音質も素晴らしい。



39番は、ロンドンシンフォニーの1951年のモノラル録音。
ゆったりしたテンポで格調高い演奏です。



40番もロンドンシンフォニーで、1953年の録音。緩徐楽章がゆったりたっぷりで心が奪われる。一方、メヌエットが早めの演奏。
フィナーレは鬼気迫るような演奏です。



41番、ジュピターは1957年イスラエルフィルでステレオ録音。イスラエルフィルとの共演というのは珍しいのだろう。音の厚みに欠けるが、典雅な音楽を引き出せるのもクリップスの力量だろう。一点一画もおろそかにしないという意気込みが感じられる。

それにしてもコンセルトヘボウとのすべての録音がネットで聴けるようになってほしいものだ。


ごあいさつ
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