日々の気づきノートです。

姉妹ブログ「勇気の出る名言集」を始めました。
過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

2021年12月

令和3年(2021)私の10大ニュース

早いもので今日は令和3年の大晦日です。
今年も1年をふり返り、来年の改善につなげていきたと思います。

1. 母の大腿骨骨折と退院後の介護生活



1月23日(土)夕方、母が家の庭で転倒し、大腿骨骨折。母は骨折の痛みの中、必死で電話まで移動し、私に電話をした。
私は、実家に駆け付け救急車を呼び、C病院に搬送され入院。母は約3ヶ月入院して退院し、自宅へ帰り、私は母の介護のため実家に移り住む。

2. K君 コロナとの戦い



同窓会には必ず出席するK君は大学の同級生(工学部)。K君は、大学院の入試の時に突如として医学の道を選ぶ。彼のお父さんはお医者さんであったことで、大学院の入試というタイミングで人生の選択を決断した。彼は無事に医学部に合格し、医療者の道を進んだ。
遅くに結婚し、一女に恵まれ、まさに目に入れても痛くないほどの存在となった。
彼は、十三病院の院長となっていたが、新型コロナウィルスの戦いの中、2020年9月に新型コロナウィルスに感染し、前年の11月末に亡くなったということを奥様からの寒中見舞いで知る。
同期のほとんどがリタイアし、気楽な生活をしていた中、新型コロナウィルスで亡くなるとは全く意外な展開だった。いつも人の前に出るようなことのなかった彼が陣頭に立ってコロナとの戦いをしていた彼の姿はいまでにイメージできない。
K君の冥福を祈る。

3. 次女夫妻の一字帰国



母が入院中に主人のアメリカ駐在に帯同してアメリカのオハイオに駐在中の次女夫妻が一時帰国した。コロナ禍の中いろいろな制約の中、関空に迎えに行ったが、ゴーストタウンと化した空港の有様には驚いた。
次女の滞在中には母の見舞い(リモート)とかハイキングとかに行って楽しんだ。夫君はコロナ禍の隙をついて連日、職場の友人との懇親を深めていたが、その中、焼き肉屋へ招待され、中華料理をお返ししたがその時の懇親も楽しい思い出だ。

4. フクシマ原発事故10年


早いもので、東日本大震災、福島原発事故から10年である。この10年間ずっとこの問題を考え続けてきた。この事故の原因は単に想定外の地震であったとか、東電の対応が悪かったという問題ではなく、もっと深い因果関係を持っているように思うようになってきた。
私の結論としては、原発というような複雑な産業を日本のような国(地震多発、アメリカの従属国)が
選択すべきではなかったということであった。
次の惨禍を防ぐためにも日本が取るべき選択としては、脱原発しかないと確信している。

5. 母が退院、母と実家で同居



母は連休前の4月28日に退院した。96歳で大腿骨を骨折したという話をして、家に帰ってくると思った人はいなかったが、見事に回復して階段を登って自宅に帰ってきた。
母との当初の約束どおり、私が母の介護のために同居することになった。
現役最後の2年弱、東京での単身赴任時に自炊生活の経験はあったものの、それほど本格的なものではなかったが、ネットのレシピを自分流にアレンジして毎日料理に勤しみ、母には好評だった。

ただ、問題は単に母が生きていくためのフィジカルな問題だけではなく、母が愚痴・人の悪口・不足ばかりを口にするという精神状態(心)を何とかしなければ、という私の問題意識になった。
これは11月の再度の大腿骨骨折という事故の後にも残された問題である。
私は解決の糸口は仏教にあると考え、仏教の勉強をより強く深く進めている。

6. 実家の花壇撤去



母が退院して、私が同居した同じタイミングで実家の階下にカフェ・バーが新しく入ることになった。古い建物なのであちこち雨漏りするということで、実家の花壇も撤去して防水工事をすることになった。
この問題は私のオーナーに対する長年の懸案だったのだが、テナントの入居ということでオーナーが積極的に動いたのはラッキーだった。

7. 東京オリンピック強行



国内では新型コロナウィルスの感染第5波の最中、東京オリンピックが開催された。
多くの国民の反対の中、スガ政権はオリンピックは政権やその利権者たちによって強行されるが、果たしてその成果はあったか、その検証はちゃんとやらなければならない。
しかし、私は現代ではオリンピックの国民健康や国際交流という意味でもポジティブな意義はほとんどないと考えている。

8. 新型コロナウィルス感染第5波



新型コロナウィルス感染が始まって最大の感染拡大となった第5波。しかし、第4波が終息した後、図書館などの公共施設の規制がある程度緩和されたおかげで私のルーティンな生活も安定したものだったとも思う。
近代西洋医学に信頼を置かない私は、現行医療には近づかないが規則正しい生活の中で健康を満喫している。
秋以降の急激な終息の原因は未だ検証されていないが、政府が胸を張るワクチンの効果でないことだけは明らかである。

9. 総選挙で与党勝利



スガ首相が政権を放り出し、自民党総裁選が行なわれ、岸田総裁に代わり岸田政権の下での総選挙が行われたが、与党の勝利に終わった。
この結果は、われわれ国民が腐敗したアベ・スガ政権の継承を承認したというわけだが、その意味についてわれわれは本当に意識した結果だろうか。
実に不可解な選挙だった。

10. 母が2度目の大腿骨骨折で入院



母と同居して半年、11月12日朝に母が自分の部屋で転倒し大腿骨を再度骨折した。
母は救急車で搬送入院し、次の日に手術。リハビリ病院に転院したが、驚異的な回復をし12月29日に退院して実家に帰ってきた。
再び母との生活が始まった。

番外 宗教の実践と気づき
母との同居がきっかけだと思うが、人間の生きる意味とか苦しみと幸せとは何か、ということに深い関心を持つようになった。
そんなことから最初に「親鸞会」の活動に注目し研究したが、相対的幸福のむなしさから「無礙の一道(絶対の幸福)」を求めるというアプローチには納得できたが、無礙の一道への具体的体験を提供していないことが分かった。
そんな中、鈴木大拙の真宗の考察の中の哲学「絶対矛盾の自己同一」の中にその解を見つけることあできた。これは清沢満之に始まる近代仏教改革と西田幾多郎や鈴木大拙の活動のおかげだ。
仏教による人間の救済の理論と経験によって母を救うことができれば、と日々研究に取り組んでいる。
これらの仏教近代化の活動は真宗の伝統派や親鸞会でも無視されているようだが、私の生活に役に立つ教えであれば活用せざるべからずである。

このように日々改善を続ける生活を続けていけば大晦日・元旦も関係なく一日がありがたい輝く毎日を続けることができるのだ。

母と暮らす その52(退院)

先週の土曜日(12月25日)午前中にH病院の母のN主治医から電話があり母が予想以上に回復して12月中に退院が可能であると伝えられた。
私にとって(というか関係者すべてにとって)サプライズであった。しかし母は、すでに歩行器での歩行は可能であったが、階段の昇降もできているという。
先生によるとご家族も都合があるだろうから(年末に退院させるか、あるいは年明けか)、ということだったがこれ以上入院の必要がないということであれば退院するしかない。
いったん引き取って月曜日に退院希望日を病院に連絡することにした。

妻にも状況を話して、水曜日(12月29日)午前中に退院して実家に帰宅させることにし、12月27日(月)に病院、家族、義兄家族に連絡する。

月曜日午後はいつものように荷物の受け渡しがあるので、病院に行くとちょうど母のX線検査が行われたところで、N主治医に呼ばれて検査の結果を知らされる。
なかなか分かりにくいが骨は順調に回復しているらしい。
そこに母もやってきて先生が私に母が階段を上るところを見せたいというので見てみる。

病院の階段は22段あって真ん中の折り返しの11段まで上がって見せてくれる。

IMG_1541

なかなかしっかり歩いていてどうやら問題なさそうである。この前と違って、この時は母は病院に対する不満は口にしなかった。

母には明後日の水曜に迎えに来るから、と告げて病院を出る。

12月29日(水)当日には妻に車を頼んで実家に住む私を迎えに来てもらい、歩行器を積んで病院に行く。
10時少し前に着き、入院費を精算する。

しばらくすると母が巨大な荷物とともに降りてくる。看護師さんと挨拶して荷物を車に載せて病院の外に出る。

IMG_1552

いつものことだは退院時にソーシャルワーカーが姿を現わすことはない。

車に乗って出発するやいなか、病院に対する悪口が爆発する。私も母の態度に怒りが爆発しかけるが車の中で大喧嘩するわけにもいかず、黙っておく。
そうすると病院から妻の携帯に(私は携帯を持たない)忘れ物があるという連絡。一旦戻ると返事したが、家の近くまで来ていたので運転していた妻が「今から戻るの」と言うので、コールバックして私が後で取りにいくことにする。

家に着いて、母は元気に19段ある階段を登る。前回の4月末の時と同じような元気さである。

IMG_1553

まずは、寝室に案内するが病院と違って、暖房をつけるが寒いので母は布団に潜り込む。
妻と私はキッチンでお茶で一息つく。

お茶が終って母の様子を見ると母はベッドの中で寝ている。やはり、病院では気が張って疲れがたまっていたのであろう。

しばらくするとケア・マネージャー(CM)がやってきて母の様子を見る。CMは寝室で寝ている様子を見て安心し、私は介護計画にハンコを押す。

CMと妻を見送り、私はキッチンで家族や叔母に母の退院を連絡。読書。
14時になり病院の通常の荷物の受付時間になったので自転車で行くことにし、母の様子を確認して家を出る。途中、病院からCMへの手紙を渡すのを忘れていたので立寄る。

病院に行くと差し入れしたお菓子とベッドの間に挟まっていたという私から母への手紙が1通。母は私の手紙をビリビリに破いて捨てたという話は看護師たちもよく知っていて聞いていたが残っていたものもあったのだ。

実家に戻ると母が起きていたので、お茶と昨日作ったおはぎを出す。

母の口をついて出るのは愚痴・病院の悪口、不足の数々。
私の手紙を破ったことについては、初めて面会したとき母が病院の悪口を言ったとき、私が叱り、後で手紙で詳しい手紙で諭した。その書いた手紙を病院の人が読んで殺されるのではないかと疑い、恐ろしくなって夜が寝られなくなって破ったという。

ところがその手紙というのは、まさにその日に返ってきた手紙だったのだ。母は狼狽えて他の手紙を破ったのだろうか。

余りの母の愚かさには情けないが、これから同居するにあたっての注文(何事も人にしてもらったことに感謝すること)を伝えたが正面から受けとらない。

夕食も肉じゃがと白菜のたいたんに赤飯、日本酒とともにしっかり食べ、身体の健康は申し分ないようだ。
母の心の問題は今に始まったことでもないので気長に対応することにして、まずは無事に退院帰宅できたことに感謝することとした。

クリュイタンスの「第九」

先日は、レイボヴィッツの「第九」をご紹介したが、今年はなぜか「第九」が聴きたくなりクリュイタンスの「第九」を聴いた。




ベートーヴェンの交響曲をいろいろ聞いているけれど明朗な聴きやすさという点ではクリュイタンス/ベルリンフィルの演奏が群を抜いていると思う。
よく、クリュイタンスのベートーベンの交響曲は偶数番がいいと言われることがあるが、続けて聴いてみたら9曲全部が素晴らしいことがわかった。

アンドレ・クリュイタンス(André Cluytens, 1905-1967)はベルギーのアントワープ出身で代々の音楽家の家に生まれた。幼少時から父にフランス文化とともにドイツ文化を教育される。
指揮者として主にフランスでのオペラ劇場やオーケストラで活躍するが、1955年にはベルギー人として初めてバイロイトに招かれる。ここでもクリュイタンスのドイツ文化・音楽への理解が評価されたのだろう。
その後、ウィーンフィル、ベルリンフィルなどのドイツ系名門オーケストラへの客演で好評を博す。

1954年にフルトヴェングラーが亡くなってベルリンフィルの首席指揮者をめぐって熾烈な争いが繰り広げられるわけだが、最終的に1955年のアメリカ公演の代役に立ったカラヤンが成功を収め、その後帝王カラヤンのベルリンフィルになっていく(残念だが)。

そのようなベルリンフィルの歴史の中で、この時期のクリュイタンスがベルリンフィルを演奏してベートーベン交響曲全集をごく初期のステレオ録音を残したことは奇跡ともいえることだった。

慌ただしい師走のひととき、今年一年をふり返りながら聴くにふさわしい晴れ晴れとした演奏だ。

ブログを書くということ

毎日ブログを更新して足掛け8年目になるが、一向飽きることがない。これだけ私が飽きることなく続けた趣味は今までにない。
特に読者が多いとか読者からの反響があるというわけではないが毎日書いていて楽しいのが長続きの要因であると思う。

そうすると、私は何を目指して書いているのだろうか。
私は、現役の技術系サラリーマンとしては、比較的会社で文章を書くのが好きだったように思う。
会社で書く文書というと組織として何かを決めるときとか、コミュニケーションのためとかいうものだったと思うのだが、若い内から役所折衝の仕事やプレス対応が多かったことも関係しているかもしれない。

文書を書くというのは、邪魔くさい仕事であるのかもしれないが、私は結構書くの好きだったのかもしれない。

そんなことを思ったのは最近、山形浩生さんという人の「わかりやすさは、ただの表現技術の問題ではないのだ」という文章を読んだからだ。



この人の言っていることは、私の書いているときに感じることと近いような気がする。

まず第1に「自分が本当にわかっていることを書くこと」。

これは大事だ。

人々は、何かをわかること自体より、わかったような顔をして見せるほうが大事だったりする。でも私は、「わからない」ことが気になる。まして「わからない」ことを「わかったようにふるまう」なんてことできない。
でもサラリーマン時代には明らかに分かっていないと思われる人がさも当然そうにふるまっている姿を至る所でみた。そしてそういう人に限って偉くなっていたことを思いだす。

現在でも政治家や中央の官僚たちが私ほど良く知っている人はいないみたな顔をしてるのをも見ると気の毒に思う。なぜなら、彼らは「わかること」の喜びを知らないからだ。

第2番目は、「だれに対して説明しているのかを意識すること」

しゃべるように書く、ということ。
これは一応意識しているように思うが、反応がないだけに難しい。どちらかというと自分自身に説明するつもりで書いているように思う。

本当にわかりやすい文章には、「これを伝えたい!」という論点がある。

自分に分かるように伝えたい。

石川淳は、「文学では結論が出るだけでは市が栄えない」と書いた。これはほかの分野でもそうだ。コンサルタントや学者や評論家は、一発で答えを出したらそれでもうお座敷がかからなくなる。「自分じゃわからないからこいつに頼もう」と相手に思わせて、はじめて仕事がとれる。そういう文章はひたすらむずかしく、わかりにくく、えらそうなほうがいいんだ。それが必ずしも悪いわけじゃない。ただ、やるならきちんと意識しよう。あなたは本当にわかりやすい文章が書きたいんだろうか? それともこけおどしがやりたいんだろうか。

世の中にはこれが一番多い。もってまわって長い文章を読まされて、結局何だかったわからないままで終わることも多い。

そして、重大なのが、次の指摘だ。

本当にわかりやすい文章というのは、往々にして書き手自身の発見がベースになっている。ぼくの文章の多くは、書き出し時点では別の結論を想定していた。書くことそのものを通じて新しい発見があり、意外な結論に到達する

書いている内に、自分の気づきの本質が見えてくるのは楽しい。

その意味で、わかりやすさは器用な解説屋さんの小手先テクニックじゃない。もっともっと本質的なものだ。そしてうまくすれば、それがいまの日本の閉塞感を多少なりとも崩せなくはない。ぼくはかなり本気でそう信じているのだ

だから私もその本質に至ることを願って毎日楽しみながら書いているのである。

親ガチャ 再考

介護のために実家で母と同居しだして、私自身と親との関係を考えてみた。

スピリチャルには家族というのは、生まれる前に自分が選択してその夫婦の子として生まれてくるという考えもあるから、「親ガチャ」というような安っぽいものではないのだろうが、どう考えても私の両親が私に与えた影響は決定的なものだ。



まず、私は父親から叱られたという記憶がない。中小企業の経営者という立場の割にはリベラルな考え方の持ち主で今から考えれば子どもであっても「人権」を認めてくれていたように思う。
支持政党は自民党で産経新聞の読者であったが、当時は自民党は多様でいろんな考え方をする人がいた。

父は、いわゆるリーダー型の人間だったが、勤めていた会社が複数の合併によって出来た会社のナンバーツーだったので色々な葛藤も多かったようだ。
それが影響したかどうかはわからないが、宗教には熱心だった。家の宗旨は浄土真宗だったが禅宗のお寺に出入りし、そのお寺で毎月開催されていた法話会に出ることを楽しみにしていた。
私も高校生時代に二夏そのお寺に預かってもらった。

その父が二つの宗派について、禅宗と浄土真宗は同じだ、という趣旨のことを常々言っていた。その当時は分からなかったが、清沢満之や鈴木大拙を学ぶようになって私も同じ考えを持つようになった。

それより前、私が小学校時代だと思うのだが「地獄・極楽」の話があって、父に本当に「地獄・極楽」があるのか聞いたことがある。
そのとき父は「地獄・極楽は現世にある」と言いきった。

今から思えば、まさにその通りで死ぬ時にどんな状態であるかによって来世の状態も決まるらしいので父の言ったことは今でも正しいと思っている。

一方の母は、性悪説・独善的な人なので私は厳しく育てられた、口による暴力は日常的で感情的になるとよく叩かれた記憶がある。

私の姉も母との関係は私よりさらに悪く、傍から見ていても凄まじいものだった。そのせいかどうかはともかく姉は高校卒業とともに町を飛び出して東京で生活を始めた。

姉は東京で出会った群馬出身の人と結婚したが、私の両親が東京での生活に心配して地元に帰ってくるよう勧め、姉夫婦は最終的に父の仕事を手伝った。

私も学校を出てサラリーマンになったので(父は私の進路に一切口を出さなかった)ので勢い、両親は姉夫婦の世話になることも多かった。
二人姉弟なのでゆくゆくは男の私が両親の世話をするという暗黙の了解があったものの、私はずっと単身赴任をしていたもので、やはり姉夫婦の負担になっていたと思う。

本来姉も母との関係は最悪だったのだが、姉はそれなりに対応していたが免疫不全による難病にかかる。私はこの病は母との軋轢が原因と確信していたが、家族内では諸説ある。
姉は死の最期まで母の面会を許可しなかったが、母は姉と良好な関係であったという架空のストーリーに書き換えられている。

姉の死によって、母の老後の対応は私の手に戻ってきたわけだが、姉との関係を間近に見てきた私だが、母の思想・行動は凄まじい。
この人とどうやって父は折り合いを付けてきたのだとまったく謎だ。

そういえば、私が子どもの頃、父に連れられておでん屋で夕食を食べに連れていってもらったことを思い出した。今から思えば、盛大に夫婦ゲンカをして父が私を連れて外で晩ご飯を食べたのだろうと思う。
父も母の扱いには困っていたのだろう。

こんなことを思っていると、私の「親ガチャ」は単純に一勝(父)一敗(母)であるようにも思えるのだが、実際に母と同居してみるとそう単純なものでもない気がしてくる。

実際、間近に母の姿を見ていると、どうしても我を通さなければならないと思い込んでいる母が気の毒でならなくなってくる。
このまま愚痴・悪口・不足を言い続けていたら(母は念仏を称えているので浄土に行けると信じているらしいが)死んだら地獄へ真っ逆さまは必定だ。

生きている間にそのことに気づいてほしい、と思って仏教の話をするがまさに「馬の耳に念仏」である。
今のところ反面教師として母の姿しか見えないのだが、真理を知らせてから死なしてやりたい。
これが私の現在の課題である。こんな面白いワクワクするような課題を持っている人はまず居ないのじゃなかろうか。

そう思うと、私の「親ガチャ」は二連勝ではなかろうかと思えてくるのである。
ごあいさつ
日々の生活の気づきから人生の成熟を目指しています。

幸せ職場の考え方は、
幸せ職場
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勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14
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