先日、谷口雅春「生命の実相 第4巻 生命篇 下」を読んでいると、「不生」という言葉に出会い、盤珪禅師の「不生」と関係しているのかどうか気になり、調べてみました。
問題の箇所は、
先日『涅槃経』を読んでみますと、「解説を名付けて不生という。譬えば醍醐のその性清浄なるがごとし。如来もまたしかなり。父母の和合によりて生ずるに非ずその性清浄なり、父母あるを示現するゆえんはもろもろの衆生を他度せんと欲するがためのゆえなり」と書いてありました。その夢を見なくする、迷妄にとらわれなくする。心が悟りを開いて、その人が自然に仮相の世界へあらわれて来なくなるはけっこうですが、悟りを開かないままで、ただの映って来る道をふさいでおくのでは、その迷いの霊が悟りを開く機会がかえって得られないのです。迷える霊は、影の世界へ影を映じながら、それによって浄められてゆくのです。(p170)
「涅槃経(大般涅槃経)」では「解脱」することを「不生」といっている。これはどういうことなのか。谷口先生の涅槃経の引用だけでは十分に理解しがたいので、涅槃経に当ってみる。地元の図書館で大正11年の原田霊道「現代意訳 大般涅槃経」というのが一つだけあったので頭から読んでみた。
幸運なことに比較的前半の場所にあった。
『世尊よ、涅槃は解脱の意味と云はれますが、その解脱は物質的のものですか、精神的のものですか』
『肉體のあるものもあり、また肉體のないのもある。非物質のものは小乗の解脱で、大乗の解脱には物質の存在を許す。故に解脱にも物質と精神の二つがある。唯諾の學の弟子に非物質と説くのである。
正しきものよ、真の解脱とはあらゆる束縛を脱却することである。真の解脱即も一切の緊縛を脱すれば、父母の和合によつて生するが如き生はない。故にまた不生とも云ふ。また解脱を虚無と云ふことがある。一切の差別的存在を否定し盡した虚無が解脱である。解脱は即ち佛陀である。佛陀は差別的偏見を脱離せるものであるから、解脱は安穏とも名ける。眞の安穏は清浄の處にある。解脱には一切の妄染なく、従つて畏るべき何物もない故に解脱を安穏と云ふ。佛陀もまださうである。(原田霊道「現代意訳 大般涅槃経」、p71-72)
少々、文脈の違いがあるが、言っていることは同じだ。即ち、「真の生命とは、父母の和合によりて生ずるのではない。生命とは元々性清浄なものである(父母が実在するかのごとくに示現するのはもろもろの衆生を救済するためのものである)。だから真の生命を不生と言うのである」ということなのですね。
「般若心経」では「不生不滅」と言うが、盤珪禅師は「不生」一本鎗で貫きました。
ここでは「父母の和合」を引き合いに出していますが、これも「父母未生以前の面目」とつながっています。
こうして「涅槃経」を読むと、どうやら盤珪禅師が「不生」という言葉を使い出したルーツは、「涅槃経」にあるように思えます。
大乗仏教が生まれ「生命の実相」が明らかにされたちょうどその頃にイエスは「アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」と語り、その後すっかり忘れられたが、日本の江戸時代に盤珪禅師が甦らせたのでした。
こういう経緯をたどっていくと盤珪が「仏心」とも「不生不滅の仏心」とも言わず「不生」と一本鎗で言ったことの意味が分かってくるのです。