母の退院日(4月28日)から実家での私の母との生活が始まった。
私も既に66歳の立派な高齢者だから、カテゴリー的には老々介護ということになる。
大腿骨骨折で3ヶ月入院をした96歳の母は、意外に身体面では回復していることはひとまず安心した。
特に19段の階段を力強く登ってくれたのには驚いた。
また、生活の基本動作はできるのでそれほど手はかからない。私は母が歩行器を使わずに勝手に歩こうとするのを制止したり指導したりすることが中心になる。
介護を開始するにあたって、あらためて「家事」について考えてみた。
かつての「家事のさしすせそ」つまり「さ(裁縫)、し(躾)、す(炊事)、せ(洗濯)、そ(掃除)」だが今ではありえない。(裁縫)ユニクロやしまむら、(炊事)レシピや宅配、(洗濯)全自動洗濯機、(掃除)ルンバや掃除機の仕事で家事から外れてしまった。
そうして、残るのは「躾」だけだ。「躾」とは、身だしなみ、ひいては「人間の生き方そのもの」だけである。
ところがこれが今の世で重んじられることがない。
人間は最も大事なことを先送りしてきたわけだ。
しかし、環境問題やコロナ禍に遭遇し、われわれはついにこの問題に直面せざるを得なくなった。
特に母にはこの点について以前から重大な問題であることは明らかだ。
母は常に他人と自分を比較して、自分が上か下かで判断してきた。しかし、結局、そういう人間観が自分自身を苦しめていることに気づいていない。
たとえば、車いすや歩行器の人を見ると軽蔑したようなあるいは差別的な発言をしていた。
私は今回の母の入院で、自分が同じような身になったことで何か変化があるかどうかに非常に強い関心をもって見てきた。
しかし、今までのところその兆候は見られない。相変わらず人と比較して自分が上だ、下だという面でしか人を見ることはできないままだ。
しかし、人間はいずれは死んで平等に土になるしかない。
私が母と同居して母の介護のため同居をする究極の目標は、彼女が生きとし生けるものが大いなる存在によって生かされた同朋であることに気づいてもらうことにある。
これが私の母の介護開始にあたっての宣言だ。
母がこの真の人間観(世界観)を知らずにこの世を去らせることは、息子の私として忍びなく母が余りにも不憫だ。