日々の気づきノートです。

姉妹ブログ「勇気の出る名言集」を始めました。
過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

2020年08月

現在の日本の経済状況をどう読むか

日本の経済はよくデフレであると言われるが、政府はアベノミクスで好調だというが実感がない。私は、デフレだが、ジワジワと物価が上昇しているのでスタグフレーション(stagflation:stagnation(停滞)とinflation(インフレーション)が同時に起こる経済現象)じゃないかと前から思っていたが、あまり賛同を得られたことがない。
珍しくそれに近い意見の人をネット上で見つけたので紹介しておきます。



経済評論家の加谷 珪一さんの「新聞テレビは言わない…日本は「デフレではない」と言える、これだけの理由」という記事です。

不景気だ、デフレだといわれながら周りも見ていると着実に商品が値上がりしている。値上がりするなら商品が少ないかというとスーパーに行けば商品は棚から溢れるほどである。

加谷さんは、ガソリン、マンションを自動車を例に挙げているが、スーパーに並ぶ商品類もしっかり値上がりしている。
加谷さんはここでスタグフレーションを指摘するが、その原因にまでは深く追求していない。

あえてマクロ経済の用語を使って現状を説明するならば、不景気によってGDPは成長せず、賃金も上がっていないものの、海外経済の影響で物価は上昇しているので、デフレではなく不景気下のインフレ、つまり一種の「スタグフレーション」に近い状態ということになる。

一般的には正しいようだが、海外経済の影響だけでは、現状の値上げは説明しきれないように思う。日本に較べれば海外の経済成長が大きいので輸入品価格の上昇はあるとは思うが、日本の輸入量の少なさから考えると何か別の要因があるように思う。

一つ考えられるのは、大企業の内部留保の増大である。ここ数年、大企業の内部留保の増大が著しい。これは人件費の削減が大きいと思われるが、大企業が節税に努めていることにもよる。
最企業の経営者は新自由主義とグローバリズムという言葉に怯えて、内部留保を高めてわが身を守ることが経営だと勘違いした。
そして、経営者たちは恐れと疑いのスパイラルの中に入り、それととともに経済もデフレに輪をかけ、さらに消費増税でデフレは決定的なものになった。
ところが内部留保拡大こそが経営の本質であると勘違いした経営者たちはみな「あうんの呼吸」でひそかに値上げを始めた。原材料費の値上げを理由として。
政府広報も大企業が動きやすいようにしてマスコミにこのストーリーをレクすると新聞やテレビで流すので、国民は「しゃーないな」と大企業の都合による値上げを認めてしまう。

かくのごとくして、モノが溢れる日本でそもそも起こり得ないスタグフレーションと大企業の内部留保の拡大が引き起こされたのだと私は見ている。

映画「グリーンマイル」

映画「グリーマイル」はスティーブン・キングの原作で1999年に映画化され、2000年のアカデミー賞では4部門にノミネートされた名作。
大恐慌の1932年の刑務所を舞台としているが、現在の日本の刑務所や司法の実態と比較しながら面白く見ました。



1932年、アメリカのノースカロライナ州の刑務所。死刑囚監房で看守を務めるポール(トム・ハンクス)のもとに、一人の黒人の大男ジョン(マイケル・クラーク・ダンカン)が送られて来る。双子の少女を強姦殺人した罪を持つ死刑囚ジョンは、その風貌や罪状に似合わないほど優しく、繊細で純粋な心を持っていた。これと同時期に、知事の妻の甥であるパーシーが看守となり、傲慢な態度で他の看守たちから嫌われ、非倫理的な事件を起こす。

死刑は、電気椅子で執行されるが、手順は州法に基づき機械的に行われる。死刑囚が可能な限り苦しみを受けないよう、椅子の電極を磨き、頭の電極は湿ったスポンジで濡らすなど細かい規定がある。
死刑執行には執行刑務官以外にも被害者家族や陪審員も立ち会う。

ポールを含め、刑務官は犯罪者の人権に最大限の配慮をしていることが見てとれる。それはパーシーの非倫理的な行動が他の刑務官たちから非難されることで理解される。

日本の刑務所がどんな状況であるかは、なかなか知ることは難しいが、検察の取り調べで300日間拘束された籠池諄子さんの書かれた本から見ても、日本は百年近く時間が止まっているような気がする。



現在では、ノースカロライナ州では死刑制度は廃止されているし、連邦全体でも未だ死刑制度を維持している州でも死刑は実施されていない。
日本では一昨年オウム事件の死刑囚13人を一斉に執行したということもあったが、そもそもの人権としての生命を奪うことができるのか、ということをそろそろ真剣に議論してもいい時期ではなかろうか。
実際に日本では冤罪が多いことでも知られている。

ジョンの超能力は人間から悪を取り除くということであったが、これは超能力ということではなくても普通の人間でもできることだ。過去の世界の宗教の祖師たちの目指したものも「人間から悪を取り除く」ということだった。

ポールはジョンの死刑の際、ジョンから魂を受けとり、刑務官をやめて少年犯の更生官に転任する。
3時間以上の長い映画だが、ストーリーが進むにつれて余計に引きつけられていく映画だった。

特定の人からの魂を譲り受けた人のミッションについても考えさせられる映画だった。

また、ジョンが黒人であることから冤罪に問われたことは、最近のBlackLivesMatterの問題にも関連しており1930年代の黒人の扱いについても知ることができるよい映画だ。

なお、グリーンマイルというのは死刑囚の牢獄から刑場までの通路の色が緑色だからそう呼ばれていることによる。「十三階段への道」のネーミングと同じである。
ところで、「十三階段への道」の原題は“Der Nurnberger Prozess”(ニュールンベルグ裁判)でしたが邦題でこうなりました。いいタイトルを考えたものです。

辞任しても説明責任からは逃れられない

昨日、実家の母のところに行ってTVを見ている時に、安倍首相が自民党本部を訪れ、辞任の意向を伝えたニュースが入ってきた。

安倍辞任



テレビ出演中の人々が口々に「驚き」を表明していたが、この数日の安倍氏周辺情報を見ていれば17時からの会見は辞任についてであることは明らかだった。それにもかかわらず、メディアが驚いていることに対し私は驚きだ。
これは官邸がメディアがそう動くように指示されていた、もしくは言われずともそのように動く忖度の仕組みが働いたか。

それにしても、国の政治や社会のシステムをこれほど徹底的に破壊しながら、二度にわたって同じ理由で無責任に政権を放り出す無責任さにはあきれて声も出ない。
人間が病になることは避けることはできないのかもしれないが、私が期待する一国の首相として自覚ある人間の取るべき行動と実際の安倍氏の日頃の行動には大きなギャップがあったように思う。

ところで、安倍氏辞任の意向表明以降の報道ぶりを見ていると、メディアの視点は「次はどうなるの?」に集約されている。

こういうマスメディアの動きを見ていると75年前の事実を思い出す。「玉音放送」→「驚き」→「(原因の究明、検証は抜きで)次はどうなるの?」で「何でこうなった?」が抜けている。
しかし、玉音放送、2度の安倍政権放り出しだけではなく、われわれ日本人は、敗戦後75年間同じ調子でやってきたように思う。

さて、今回の安倍首相の場合、説明責任を当然果たすべき諸々の事案に対して一切の責任を果たしていない。
安倍氏に諸案件の実相を語っていただかない以上、今まで営々として築いてきた日本の社会システムが崩壊してしまったのかが検証できない。
したがって今回健康上の理由により首相をお辞めになっても、国民への説明責任から逃れることはできない。
また、よしんば国会議員や国民からの説明責任要求から逃れられたとしても、自身の良心から、あるいは神から命を頂いてこの世に生まれた一人の人間安倍晋三としての説明責任を逃れることはできないと思うのである。

石井妙子「女帝 小池百合子」

先日のブログでも小池百合子氏の東京都知事選挙結果について少し書きました。



なぜ小池氏のような人格が生まれたのかについて詳しく分析した本が出ている。

女帝 小池百合子
石井 妙子
文藝春秋
2020-05-29


この本に関しては、小池氏がカイロにいた時に同居していた女性の証言が小池氏のカイロ大学卒業という経歴が虚偽であることを示す決定的な証拠であることが注目されているが、この本の真の価値は、小池氏のパーソナリティがいかなる原因によって生まれたかという深い考察にあると思う。
東京都知事という日本で最も強い権力を持つ人物がいまままでいかなる行動を取ってきたか、そしてその動機は、さらにその人物は何者か?実に深い考察が含まれている。

全編息つく間もないような本だが、私が注目した箇所と感じたことを書き留めておきます。

小池氏の家系、祖父・喜兵衛は着の身着のまま下駄ばきでシアトルに渡った。日本に帰国すると神戸で船会社を起こした。喜兵衛は赤穂出身のかつと結婚し、3人の息子と一人の娘をもうける。
小池氏の父、雄二郎は「詐欺師」「山師」「政治ゴロ」とも呼ばれるような人であったという。著名人とりわけ政治家が好きで大法螺を吹いては周囲の人々に深刻な金銭上の迷惑をかけた。

娘は父の被害者だった。だが、同時に父の創造物でもあった。時には父が娘の共犯者となって協力した。…(p10)

小池氏の基本的な考え方は、自分がこうしたい、ではなく「人から羨ましがられる」ことであるという。それは若い時に人を羨んでばかりいたからであったのだろう。

彼女には何をやりたいというものはなかった。ただし、人からうらやましがられ、スポットライトを浴び、注目される仕事でなければ満足できなかった。(p155)

雄二郎は人に迷惑をかけて嫌われるだけの人であったが、小池氏は世話になった人すべてに後ろ脚で砂をかけて去っていくという。

社会的な地位の高い人にすり寄っていくイメージがありますが、最後はそういう人を足蹴にする。お父さんのことが影響そているのか、成功した男性を貶めたいという心理もあるように見える。…義理とか、情とか、筋を通すとか。『そんなに落ち込むなら、初めから私に近づかなきゃよかったでしょ。そちいが悪いのよ。私を誤解したんだから』とで思っているような(最初の番組に出る時世話になったテレビ東京の創業者中川会長を知る人の話、p168)

この証言のとおり、小池氏は最初の夫や舛添要一、細川護熙、小沢一郎、小泉純一郎などを利用し、後ろ足で砂をかけて出ていった。

それほど波風を立てているのに彼女が何をしたいのかはいつも不明だ。

石井さんは小池氏の目標は「男」だったとみる。

男性たちにあがめられる存在。女にしておくのは惜しいと言われる女。男を魅了しつつ、男たちに頼られ、尊敬され恐れられるリーダー。屈強な男たちを率いて優秀でエレガントな女。それが彼女の求める自己イメージであり、理想だった。(p262)

小池氏の場合はLGBTとは異なる。肉体は女らしく心や行動が男から男らしいというような人間になることだった。これは父雄二郎の願いでもあったのかもしれません。

また、小池氏にとっては「中身」ではなく「外見」が優先した。

「学ぶ」ことはせず、「見せる」ことにしか関心がないのだ。(p263)

また、立派な男と呼ばれるのに必要な「懐の深さ」の価値は分からないらしく、人間は「経済のことだけ」を考えているという信念があったようです。だから、防衛大臣になって辺野古の埋め立てで今揉めている問題を生み出した。

「環境大臣をした人が平然とサンゴ礁を埋め立ててしまえばいいと言う。その感覚が不死語でした。沖縄は政財界だけで成り立っているわけではない。市民は自然を破壊されることに強く反発します。…でも、小池さんは浅瀬案なら沖縄財界が納得し、普天間基地問題が片付くと単純に思っているようでした。(守屋武昌元防衛時事務次官、p267)

しかし、この問題について小池氏が引き起こしたと知る人は少ない。

都知事になってからも同じ調子らしい。

都庁職員の小池に対する評価は厳しく、平均46.4点(100点満点)であった。石原が新銀行東京で失敗し、責任を問われた時の48点よりも、さらに低い数字である。職員たちは理由として「都知事による粛清人事の横行」、「深い考えがなく思いつきで行動する」等を挙げている。(p399)

2点目の「深い考えがなく思いつきで行動する」は今回のコロナ禍でも遺憾なく発揮された。
それにしても、こういう調査が行われていること自体が東京都は進んでいるように思う。

知事選の7つの公約も全く無視されたままである。

公約は無視され、公約になかったことが次々と進められていく。だが、マスコミはほとんど報じない。大手新聞もテレビ局も押しなべてオリンピックの協賛企業となっているからか、テレビ局の幹部は語る。
「都政批判はテレビ局はやりにくいですよ。首根っこを掴まれてますから。内閣や総務省なんかよりも、よほど」
言ったことは言っていない、記憶にないで済まされれてしまう。過去はいくらでも書き換えられてしまう。都知事になってからも。なぜなら、それが彼女の本質だからである。(p399-400)

小池氏も小池氏だが、こんなことを平気でメディアの幹部が言っているようでは、これから先も同じことが繰り返されるでしょう。

小池氏を知る人が彼女を以下のように評している。

女でアザがあって、親があんなで。普通の就職や結婚は出来ないと、小さな頃から思ってたんだろう。あいつは、はったりで、それでもひとりで生き抜いてきたんだ。褒め上げる気はないが、貶める気にもなれない。あれは虚言癖というより、自己防衛だよ。あいつが手にしたのはイカロスの翼だ。こんなに飛べるとは、あいつだって思っていなかっただろう。太陽に向かえば、翼は溶けて墜落する。その日まであいつは飛び続ける気なんだ。(p402)

小池氏は自己防衛を続けてあのような人間性になってしまったというのだ。イカロスの翼を手にして日本の首相になれるかもしれないが、自分自身に何かしたことがあるわけではないのに首相になってどうするというのだろうか。翼が溶けて墜落してその時に気づくというのが今では一番良い選択のとうにも思える。

彼女が彼女になれたのは、彼女の「物語」に負うところが大きい。本来、こうした「物語」をメディアが検証するべきであるのに、その義務を放棄してきた。そればかりか、無責任な共犯者になってきた。(p423)

確かに小池氏を持ち上げたメディアも悪いが、メディアがそういう行動を取るのはそもそもの国民が小池氏の甘い言葉に乗ってしまっているのが原因である。

虚栄心に捕らわれ、その虚栄心ゆえに危険な演技者となるといったタイプの為政者は過去にもいた。彼ら彼女らは国民を煽り、結果として国民を不幸に突き落とす。自分の言動の「効果」を計算し、自分が与える「印象」ばかりに気を取られ、それを優先し、それによって生じた現象に対する責任を安易に考える傾向があるからだ。(p423-434)

太平洋戦争に国を導いた指導者にこんな人がたくさんいました。

マックス・ウェーバーは『職業としての政治』でこんなことを言っているそうだ。

デマゴーグの態度は本質に即していないから、本物の権力の代わりに権力の派手な外観(シャイン)を求め、またその態度が無責任だから、内容的な目的をなに一つ持たず、ただ権力のために権力を享受することになりやすい。権力は一部の政治の不可避的な手段であり、従ってまた、一切の政治の反動力であるが、というよりむしろ、権力がまさにそういうものであるからこそ、権力を笠に着た成り上がり者の大言壮語や、権力に溺れたナルシズム。ようするに純粋な権力崇拝ほど、政治の力を堕落させ歪めるものはない。(p424)

中身がないから外見を飾る。そして手段ではないはずの権力を手にする。そのことに気づかず、すっかり騙されているのが現在の日本国民や東京都民ということになります。

著者の石井さんは、最後に小池氏の生きてきた道と心の内を推測する。

何をしてでも有名になれという父、ひとりで生き抜いていかなくてはいかにと語った母。女の子なのにかわいそうにと憐れむように、蔑むように向けられた視線。
彼女は宿命に抗った。そのためには「物語」が必要だったのだろう。(p426)

そうすると、われわれ日本人が共通に持つ差別意識が小池百合子というアイデンティティの形成に関与していることにもなる。
デマゴーグの政治家は国民にとってのリスクだが、そのリスクの形成に自分自身が関与していることに気づかないと、このような物語の再発を防止することはできない。

国の文明度を測る唯一の基準

昨日のBSプレミアム、「英雄たちの選択」は「100年前のパンデミック」でした。
100年前のスペイン風邪の流行に、日本人たちはどんな対応をしたかが、紹介されきわめて興味深いないようでした。

スペイン風邪

栃木県の町医者の取った行動、ワクチン開発に関する北里研究所と国の感染研究所との開発競争、啓蒙ポスター、京都で感染した女学生の日記等が紹介された。

今回のコロナ禍で起こったことがすでに日本で起こっていたことが見える。
特に注目すべきは、感染者に対する差別問題で、これは日本人は100年間変わっていないことをありありと示している。

出席されていた東大の児玉龍彦先生が「武漢日記」から引用された言葉が印象的だった。

ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ。

さて、コロナ禍の中、われわれはわが国の文明度をどのように評価すべきだろうか。
ごあいさつ
日々の生活の気づきから人生の成熟を目指しています。

幸せ職場の考え方は、
幸せ職場
をご覧ください。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14
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