資本主義の対抗思想としてのマルクスの考え方は、資本主義の改良には大きく貢献することはできませんでした。しかし、その思想は、ソ連の建国と独裁政権の権威付けとして利用されました。
“1990年代初頭までは、共産主義が必ず勝利するという考えに共感する者は大勢いたが、その考えはソビエト圏の崩壊とともに消え失せた。(p103)
人間を幸せにするための思想を独裁制を維持するための道具として使われた結果でした。そしてマルクスの資本主義の問題点を改良するための考え方は、結局使われないまま現在に至った。
“今日、歯車は狂い、資本主語、社会主義、民主主義、市場などの《歴史》の意義は、何一つ実現されていない。これまでに紹介したメソード(ゲーム、映画、音楽、ユーモア)だけでは充分ではないのだ。すべては限りなく複合的であり、相互依存を強め、不安定で移ろいやすい。未来に大きな影響をおよぼすだろう者たちの人数は増え続けている。ほとんどの人々は自由と幻想に酔いしれ、他者や未来のことなど気にかけるのをやめ、刹那的に暮らしている。永遠だけでなく、自分達に残された年月さえ考えようとしない。彼等はブーレーズ・パスカルが理論づけたように、馬鹿げた娯楽にうつつを抜かし、自分たちが死すべき存在であるのを忘れている。こうした傾向は、未来分析のあらゆる側面に明確にみられる。今後、人々は自分たちの牢獄に閉じこもり、自分たちの未来の動向を予測する作業を、コンピュータに任せることになるのだろうか。(p116-117)
「歴史の意義は何一つ実現されていない」、「今後、人々は自分達の牢獄に閉じこもり、自分たちの未来の動向を予測する作業を、コンピュータに任せることになるのだろうか」とは、現代の新型ウィルスの脅威を恐れ、封鎖された都会に閉じこもりスマホで誰かの未来予測を求めている現代人の姿が彷彿とされる言葉である。
“これまでの200年間、われわれは、複合的つまり直感に反するものも含めて、未来の因果関係を過去から説明しようとしてきたが、今後、われわれは因果関係を探し求めようとはしない。大多数の間に見られている相関関係という唯一の作用によって未来の傾向を探し求めるだけで満足するのだ。(p122)
つまり、現代のわれわれは歴史を学ばず、現在の身の回りの出来事で未来が予測できると考えている。しかしはたしてそのようなことで人類は生き残ることが可能なのだろうか。
“われわれは、自分自身の予言に包囲されているが、オイディープースが自己の運命に追いつかれる前にそこから逃れ出したように、それらの予言が実現しないように努力する時間が残されているはずだ。(p174)
「自分自身の予言」とは、自分自身の思っていること、「観念」のことです。つまり自分自身の思い込みから解放することが可能だろうか、ということを問われているのです。
“未来に関するそうした知識は、おそらく公平に分配されないだろう。この不公平は、太古の昔から続いてきたと思われる。それは一部の者たちを利する強力な手段なのだ。ほとんどの人々は、すべての未来を知ることなどできないほうがよいと思っているようだ。彼らは未来を占う知識を、新たな支配者であるコンピュータに任せようと選択するに違いない。権力を握るのは、もはや祭司、軍人、政治家ではなく、今後は、未来を繰る役割を担う企業だ。(p175)
しかしそれでは、人間は権力者や企業に繰られるだけのために生まれてきたのだろうか。
自分の人生は、自分でハンドルを握って自由にやりたいものである。