日々の気づきノートです。

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過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

2020年03月

ジャック・アタリ「文明論講義」その4

資本主義の対抗思想としてのマルクスの考え方は、資本主義の改良には大きく貢献することはできませんでした。しかし、その思想は、ソ連の建国と独裁政権の権威付けとして利用されました。

“1990年代初頭までは、共産主義が必ず勝利するという考えに共感する者は大勢いたが、その考えはソビエト圏の崩壊とともに消え失せた。(p103)

人間を幸せにするための思想を独裁制を維持するための道具として使われた結果でした。そしてマルクスの資本主義の問題点を改良するための考え方は、結局使われないまま現在に至った。

“今日、歯車は狂い、資本主語、社会主義、民主主義、市場などの《歴史》の意義は、何一つ実現されていない。これまでに紹介したメソード(ゲーム、映画、音楽、ユーモア)だけでは充分ではないのだ。すべては限りなく複合的であり、相互依存を強め、不安定で移ろいやすい。未来に大きな影響をおよぼすだろう者たちの人数は増え続けている。
 ほとんどの人々は自由と幻想に酔いしれ、他者や未来のことなど気にかけるのをやめ、刹那的に暮らしている。永遠だけでなく、自分達に残された年月さえ考えようとしない。彼等はブーレーズ・パスカルが理論づけたように、馬鹿げた娯楽にうつつを抜かし、自分たちが死すべき存在であるのを忘れている。こうした傾向は、未来分析のあらゆる側面に明確にみられる。今後、人々は自分たちの牢獄に閉じこもり、自分たちの未来の動向を予測する作業を、コンピュータに任せることになるのだろうか。(p116-117)

「歴史の意義は何一つ実現されていない」、「今後、人々は自分達の牢獄に閉じこもり、自分たちの未来の動向を予測する作業を、コンピュータに任せることになるのだろうか」とは、現代の新型ウィルスの脅威を恐れ、封鎖された都会に閉じこもりスマホで誰かの未来予測を求めている現代人の姿が彷彿とされる言葉である。

“これまでの200年間、われわれは、複合的つまり直感に反するものも含めて、未来の因果関係を過去から説明しようとしてきたが、今後、われわれは因果関係を探し求めようとはしない。大多数の間に見られている相関関係という唯一の作用によって未来の傾向を探し求めるだけで満足するのだ。(p122)

つまり、現代のわれわれは歴史を学ばず、現在の身の回りの出来事で未来が予測できると考えている。しかしはたしてそのようなことで人類は生き残ることが可能なのだろうか。

“われわれは、自分自身の予言に包囲されているが、オイディープースが自己の運命に追いつかれる前にそこから逃れ出したように、それらの予言が実現しないように努力する時間が残されているはずだ。(p174)

「自分自身の予言」とは、自分自身の思っていること、「観念」のことです。つまり自分自身の思い込みから解放することが可能だろうか、ということを問われているのです。

“未来に関するそうした知識は、おそらく公平に分配されないだろう。この不公平は、太古の昔から続いてきたと思われる。それは一部の者たちを利する強力な手段なのだ。ほとんどの人々は、すべての未来を知ることなどできないほうがよいと思っているようだ。彼らは未来を占う知識を、新たな支配者であるコンピュータに任せようと選択するに違いない。
 権力を握るのは、もはや祭司、軍人、政治家ではなく、今後は、未来を繰る役割を担う企業だ。(p175)

しかしそれでは、人間は権力者や企業に繰られるだけのために生まれてきたのだろうか。
自分の人生は、自分でハンドルを握って自由にやりたいものである。

ジャック・アタリ「文明論講義」その3

トクヴィルの後、オーギュスト・コントは人類の三つの連続的な段階説を発表しました。


“オーギュスト・コントは、人類は三つの連続的な段階をたどったと説いた。第一段階は「神学的あるいは架空」のもので、人類は、自分たちの理解を超えた現象の意味を付すために、架空の人物をつくり出す必要性を感じた。第二段階は「形而上学的あるいは抽象的な」もので、架空の人物は、ルソーの社会契約論のような抽象的で観念的な創造物に取って代わられた。そして現在も続いている第三段階は「科学的かつ実証的な」もので、そこでは真実によって人々と行動とのつながりに高度な価値が形成された。理性によって到達できるこの価値を、いわば、自然法則に基づいて未来を予測できる。「真に実証的な精神とは、予測するために考えることにある。つまり、自然法則という普遍的な一般教義にしたがって、それが何であるのかを結論づけること、それが何であるかを研究することだ」。(p100)

いわゆる西洋近代文明といわれるものが第三段階の「科学的かつ実証的」なものを真実をしたパラダイムであるわけです。そしてわれわれは現在その近代文明の中にあるが、その文明そのものが機能不全に陥りった。
そのような近代文明の初期にその問題点を自覚し危機感を抱いていた人物がいた。カール・マルクスである。

“カール・マルクスは、未来に関して同じく理性的な概念形成によって、決定されると考えてマルクスは階級闘争は《歴史》の数々の激しい矛盾を通じて、資本主義を勝利させた後、これを敗北させると説いた。

マルクスは「科学的かつ実証的」な方法を採用すべきと考えていたが、歴史の教訓から資本主義が人間社会を不幸に陥れるものであることを見抜いていた。

“(マルクスは)封建主義と資本主義の後には、社会主義と共産主義が訪れるだろうと、述べたのだ。それはどこか一回の一部の者たちの意志によるものではなく(マルクスはそうした企てを非難した)、世界中に広まった資本主主義によって地球上の利潤の源泉が枯渇するという、抑えられない形で起こると予想したのだ。(p101)

今の世界を見ると、いかにマルクスの予言が当を得ていたかと感じ入らせてくれる。現在、地球資源が有限であることによる問題が津波のように近代文明に襲いかかっている。

現在、世界を襲っている新型ウィルスを単なる新しい病原体の発生と考えてはいけない。資本主義に起因する社会の機能不全を示し、われわれが執着しているパラダイムを手放し新しいパラダイムを見いだす変更する必要性を教えてくれているのだ。

デイサービスはなぜ休止しないのか

今回の新型ウィルス感染対策で内外の行動を見ていると、日本の対応のガラパゴスさが顕在化して見えて面白い。

もっとも特徴的なのはPCR検査に対する対応だが、これはオリンピックを是が非でも実施するために考えられた苦肉の策(感染件数を抑える)と思われるが、日本の感染症対策が全く準備されていなかった、という根本的な問題があったことも露呈された。
これは9年前の福島事故と全く同じことが繰り返されたことになります。
海外では、日本が感染件数が少ないことから日本政府の対応が素晴らしいという声もあるようだが、まったく誤解しているに過ぎない。

もう一つ、重要なものに「自粛」がある。本来は政府は「活動停止を勧告」しなければならない段階なのだが、勧告すれば補償をしなければならないので「自粛を要請」する。
常に政府の責任はあいまいにされ結局何の責任も取らないまま次の事態に遭遇し忘れ去られる。これも近くは福島事故だし、遠くは太平洋戦争と同じことです。

最初は2月29日の全国の学校に休業要請が出された。



この要請を機に、私の自治体の施設やイベントが取りやめになった。妻の通っている、ジムやコーラスグループも取りやめになったが、ジムは最近再開され、労音のミュージカルのコーラスも再開された。商業的な活動は補償が確保されていないので無理もないだろう。

そして、状況は悪化の一途なのに4月以降の学校は再開されるという。まったく一貫性のない運営だが、その理由も定かにはされることはありません。

私の理解では今回の新型ウィルスの特性(若年はかかりにくく老齢者は重症化しやすい)からすると学校よりも介護施設を閉鎖すべきと思うが、私の母が週一で通っているデイサービスは普通通りやっているという。

理性では理解できない世の中の動きに違和感を感じ、今月初めから95歳の母のデイサービスを取りやめた。施設に聞いてみるとそこのデイサービスは地域でも最大の施設で毎日百人以上が利用しているという。ところが新型ウィルスを懸念して休んでいる人は私の母以外ほとんどいないという。
そこの施設には老人ホームがありそこからもデイサービスに通っていた人があるのだが、そこは外出を禁止されたため、そこから来ていた人は休んでいるという。
つまり、老人ホームは自衛のための措置を取っているということです。

じゃあ、デイサービス施設や自宅からデイサービスに送り出している家族はどう考えているのだろうか。施設の経済的理由、家族の気持ちからするとデイサービスを止めることはできないのだろう。
もはや、東日本大震災の時の福島事故の時と同じような平常バイアスが日本を覆っている。
このような異常な事態には、自分の身体感覚を最大限に研ぎすまして乗り切るしかあるまい。

汝ら新型ウィルスと和解せよ

現在、世界を恐怖に陥れている新型ウィルスだが、わが国の総理大臣のように「ウィルスとの戦い」というのはいただけない。



なぜなら、神羅万象はあなたと同じ一なるものの別の表現でしかないからです。
自分自身と戦うことは自分を傷つけることにほかなりません。

いかなるモノゴトであれ、戦ったり排斥したりせず和解することで最終的に問題を解決することができるのです。

このことを谷口雅春は以下のように述べています。

“汝ら一切のものと和解せよ。天地一切のものと和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物も汝を害することは出来ぬ。

汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪霊におかされたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。…(『七つの燈台の点燈者』の神示)

そもそも人類が今まで生き残ることができたのも、さまざまな病原菌やウィルスと共生することに成功したからです。生態系はお互いにパラサイトすることによって共生してきたのです。
そのことをよく理解して今回のウィルスの発生と蔓延がいかなる意味を持つか、静かに思いを巡らせウィルスが人類に何を教えようとしているのかを知ることが大切です。

汝ら新型ウィルスと和解せよ。

ジャック・アタリ「文明論講義」その2

アタリは、現代社会の困難を近代の発展の歴史に遡る。
まず、資本主義の出発点は、資本を貸す人がいなければならないが、利子を取ってお金を貸すということが旧約聖書では許されない。ところが、ユダヤ人が旧約の規定の抜け道を発見した。そこで、時間をお金に換算するという発明が起きたのでした。


“地上の時間の支配者は人間だと考えるユダヤ教徒は、すぐに貸金業務に参入した。ユダヤ教では、自由になる蓄えを利子付で貸すのは、誠実な契約、透明性の確保、そして貸付先はユダヤ人以外であることなどの細かな条件を満たせば、合法だと考えられていたからだ。(p94)

利子をとらないという旧約の規定はキリスト教でもイスラム教でも同じなのだが、結局現在では認められている。イスラム教でも利子はないことになっているが(配当のような瞑目にしているらしい)、現実にはイスラム社会にも金融業は存在している。
人類が時間をお金に交換する、ということを発明してことによって、人間が大きな苦悩を負ったことは忘れてはなりません。

アタリはマルサスの人口論を引用する。

“こうした理論からマルサスは、20世紀末には、飢えなくてすむのは256のうち9人だけであり、この飢餓によって出生率は低下すると唱えた。というのは、人々は、「子供をつくっても養えないのではないかという懸念を覚えると同時に、病気、不衛生な環境、栄養不足など、数多くの不幸を心配するだろう」というからだ。(p97)

19世紀末の論考だが、20世紀末の現実を見事に予言していて恐ろしいほどだ。最近の新型ウィルスの流行に右往左往する現代人の姿を予見したかのような記述である。

“アレクシ・ド・トクヴィルは、平等な社会では、自由が抑圧されると予言し、「そうした動きはすでに強力であり、それを差し止めることはできないが、それを繰るのを、あきらめるのは、まだ早い」と語った。トクヴィルにとって、自由な人間の工夫であり科学だが、平等な人間の本性であり本能なのだ。トクヴィルは、来たるべき民主主義の時代において、「政府は自然に中央集権の形を取る」が自由は必ず人為的に確保しなければならなくなると説いた。言い換えると、人々の条件を容赦なく平等にすると、人々はより大きな政治的自由を得たように感じるが、これは必然的に「自由な体制」を見かけの上で維持する「民主的な専制体制」の到来を促すだろうということだ。トクヴィルは自由は平等を前に敗北するだろうと予想した。(p99)

トクヴィルの予想した社会は、現在の日本をそのまま表わしている。形の上の自由・平等は憲法に明記されているが、現実の政治の運用では、格差は拡大し、差別やヘイトが横行しているのに規制されす見て見ぬふりをするような階層社会を作り出した。
これはわれわれ国民は「自由を人為的に確保」することを忘れていたからに違いない。
ごあいさつ
日々の生活の気づきから人生の成熟を目指しています。

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「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
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2022-02-14
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