日々の気づきノートです。

姉妹ブログ「勇気の出る名言集」を始めました。
過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

2019年12月

2019年をふり返って

われわれは2019年を終えようとしている。
ふり返って1年前の元旦のブログを見るとこんなことを言っている。



“喩えてみれば、自分の失敗を正視せず隠蔽して物事がうまくいかないのに何も改善しない人間が借金まみれなのに見得のために他人に大盤振る舞いをし、他人が攻めてくると妄想し、その人と腹を割って話すこともせず、家の周りに高い塀を築く。借金で高い兵器を買ってむやみに周りの人々にアピールし、生活に困っている人を見て見ぬふりをして、大きな祭をして金を稼ぐと大法螺を吹く。
こんな人がこれからもまともに生活していけると考える人はいないだろうが、いったん国家のこととなると、誰も危機感は持つものの問題が深刻すぎて金縛りになっている。
現在の為政者が悪いとはいうが、維新以降、国民が作ってシステムでやってきたことなので結局は自分自身の問題であることに帰結する。
いずれにせよ、近い将来にこのシステムが破綻する可能性はかなり高いだろう。その時に、私はどうするか。
うろたえず、「明日、世界が滅びるとしても、私はリンゴの木を植える」ことにしたい。
これは単に世界の破滅の時だけではなく、私が死を迎える時でも同様でありたいと思った。

はたしてこの一年、私はこのように生きてきただろうか。

もはや政界だけではなく、官界、経済界、地域社会を含めて日本の社会システム全体は機能不全を起こし、腐敗し、腐臭を放っている。日本が第三の敗戦を迎えるのは避けがたいがそれでも私はリンゴの木を植えていく。

今年、私自身の生活で一番良かったと思ったのは、谷口雅春先生の思想に触れることができたことだった。

これは、森友事件で被告の立場になった籠池諄子さんの手記を読んだことがきっかけだった。



この本により、谷口雅春先生の「生命の実相」(頭注版)よ読み始め、今、第33巻を読んでいる。深い真理を読みやすく書いてくれているのがありがたい。

画像

読み終わるのがもったいないので毎日少しずつ読んでいますが、どこを読んでも必ず気づきがあります。
現在の「生長の家」とは関係を持っていませんが、谷口先生の思想を吸収し存在の実相が明らかに見えるようになってきました。

この先にどんなことが起ころうが、強い信念をもって毎日一日一日を生きていくしかありません。

自衛隊派兵 閣議決定

この一年、政府の数々の暴走には驚かされましたが、年末のどんづまりに究極的な衝撃をあたえられました。
自衛隊を米イラン関係の緊張の高まる中東へ派兵することを閣議決定したというのです。



国連安保理の決議もないアメリカの提唱する有志連合への参加ということらしい。
現地で武力紛争が起これば、戦争が始まりかねない場所に日本の軍隊が出兵するというのです。このことを政府は、国会にも諮らず閣議決定で実行するというのだから、政府は国会(すなわち国民)の意見を聞かずに戦争の前段階に入る、ということを宣言しているに等しい暴挙です。

日本国憲法をもつ日本がこんなことになろうとはよもや思いませんでした。
やっぱり国民が「民主主義」を学びそこねたからです。これはわれわれ国民の責任です。

戦後間なしに書かれた文部省教科書「民主主義」で書かれた懸念がそのままわれわれの目の前に現前したのです。



この本の一番最後の「討論と実行」にこの懸念がすべて予言
されていました。

“民主主義の理想は、人間が人間たるにふさわしい生きがいのある生活を営み、お互の協力によって経済の繁栄と文化の興隆を図り、その豊かなみのりをすべての個人によって平和に分かちあうことができるような世の中を築いていくにある。ある一つの国が、与えられた歴史的な条件の下で、どうすればこの理想の実現に向かって一歩でも近づいていけるかは、何よりもまず、その国の政治によって解決されるべき問題である。その方針は、国により事情によって種々さまざまであるが、いかなる方針を採用する場合にも、それを決定するものは国民の多数の意志でなければならない。国民のための政治は、国民自らの力によって発見されなければならない。国民の意志で決めた政治の方針は、ときにはまちがうことがあるであろう。しかし、政治の決定権が国民の手にあるかぎり、更に国民の意志によって政治の誤りを是正していくことができる。民主主義の理想に一歩一歩と近づいていく道は、それであり、それ以外にはない。
 これが、今まであらゆる角度から見てきた、民主主義の根本の態度である。しかし、これに対して、人は不幸にしてなんべんとなく疑いを新たにする。すなわち、そのように、やりそこなってはまたやりなおして、漸進的に理想に近づいていこうとする政治の方針は、なんべんでもやりなおしをしているだけの余裕のある国、余裕のある時代の話である。そんなのんきなことをしている余地のない、せっぱつまった状態では、すみやかにただ一つのいちばんよい方針、または、ただ一つの絶対的な進路を見つけて、国民全部の力をその一筋の道に集中していくほかはないのではないか。それには、あちらになびき、こちらに動く、そのときぐの国民の多数意志で政治の方向を決めていくのではだめなのであって、やはり、少数の賢明な人々に全権をまかせるのがよいのではないか。あるいは、歴史の必然的な法則にしたがって、わき目もふらずに直進することにならざるを得ないのではないか。人は、そのように疑う。そうして、そういう疑いをいだくところに、ふたたびみたび、独裁主義への誘惑が忍びこむ。
 ことに、日本の現状は、そういう疑いをいだくのにつごうのよいような材料がたくさんある。敗戦と戦災とは、日本の産業に大打撃を与えた。その結果として、日本の経済ははなはだしい窮乏状態に陥っている。そこからくる社会の不安は、やゝもすれば議会政治に対する不信の気持を強め、この本で説明してきたような民主主義では日本は救えないのではないかという疑問をいだかせる。過激な政治の方針を実行しようとする一部の人々は、そこをねらって、ますます社会不安を増大させるような運動を展開し、危機が迫りつゝあるという宣伝を行い、自分たちの方針についてくる以外に、日本民族の生きていく道はないと思いこませようとする。そうして、国民を、あらゆる分野での闘争にかり立てていこうとする。
 なるほど、今日の日本は、実に苦しい、実にむずかしい立場におかれている。こういう状態では、どのような政治の方針によるべきかについて、国民の間に激しい意見の対立が生ずることも、ある点まではやむをえない。
 しかし、その中のどの意見といえども、それだけが絶対に正しく、それ以外の意見はすべて絶対にまちがっているといいきる権利はない。なぜならば、人間の考えることには、どうしても誤りがありうる。それなのに、自分たちの方針だけが絶対に正しいと信ずる人々は、ひとたび政治の実権をにぎってしまえば、国民をその一つの方針で引っぱってぃくだけで、それに対する批判や反対を許そうとしない。したがって、その方針がまちがっていた場合にも、その誤りを是正することができなくなってしまうからである。そればかりでなく、一つの立場を絶対のものとし、他の立場を絶対に許すまいとすれば、違った意見と意見との間に、妥協の余地のない闘争が行われることにならざるを得ない。国民の生活が一日もゆるがせにできない困難な状態にあるとき、そのような闘争を激化させることは、自ら求めて、困難を克服する機会を永久に失うゆえんである。だから、意見の対立も、対立する意見の間の争いも、国民が協同の力を発揮して困難に打ち勝つための討論の範囲を越えてはならない。それが、民主主義の規律である。
 日本の前途に幾多の大きな困難が横たわっていることは、だれの目にも明らかである。それに打ち勝つためにどうすればよいかについて、国民が真剣に討論しようとするのは、当然のことである。けれども、近代国家としての歴史が短く、民主主義の社会生活の経験に乏しい日本国民にとっては、討論が机の上の討論としてからまわりをしてしまう場合が少なくない。たとえば、人々はよく資本主義の弊害を論ずるが、今日の先進資本主義の国々は、資本主義の制度の根本は変えないで、経済の民主化をはかるために、さまぐなくふうをしている。またある国々では、急激な変革を避けつつ資本主義と社会主義のそれぞれの長所を採った政策が実行されている。大資本に対する中小商工業の立場を守るために、きわめてよく組織された協同組合を発達させたり、大規模な消費組合を作って、消費者の利益をはかったりすることも、行われている。日本では、まだ、そういう経験があまりない。だから、今日の日本としては、いたずらに議論をたゝかわせているよりも、それらの諸外国の実例や経験をよく研究して、それを日本に適合するようなしかたで実行してみる方が早道であるといえる。議論もたいせつだが、実行してみたうえでの議論の方がもっと効果がある。日本国民のうえに、大きな苦難がのしかゝっていることはたしかだが、その苦難は、それらの建設的な試みを実行してみることを許さぬほどの、絶対にどうすることもできぬ苦難ではない。
 かくて、日本の将来の希望は、かつて、今まで人類の経てきたいろいろな経験を生かして、討論しつゝ実行し、実行しつゝ討論する、国民すべての自主的な意志と努力とのうえに輝いている。議論するのもよい。が、まず働こう。やってみよう。日本人が日本を見捨てないかぎり、世界は日本を見捨てはしない。民主主義の理想は遠い。しかし、そこへいたるための道が開かれうるか否かは、われわれが一致協力してその道を切り開くか否かにかゝっている。意志のあるところには、道がある。国民みんなの意志でその道を求め、国民みんなの力でその道を開き、民主主義の約束する国民みんなの安全と幸福と繁栄とを築き上げていこうではないか。(p375-379)

引用文中ほどの太字で示した「敗戦と戦災」を「バブル崩壊とその後の経済的停滞」に入れ替えれば、現代の日本にそのまま当てはまります。
来年はこのような陥穽にはまり込んでしまった日本を民主主義に引き戻すスタートの年にしたい。

餅つき

わが家の年末のお正月準備が始まりました。
わが家では、妻がおせちを自前で準備するので私もできる範囲でお手つだいしています。
餅、黒豆、ごまめ、出し巻ぐらいですがその他はすべて妻のお料理です。

まずは餅つきです。29日の餅はなぜか嫌う人が多いので28日にやっています。
餅つきといっても杵と臼でつくわけではなく象印のパン焼き機兼用の餅つき機です。

IMG_6203

最近では、餅つき機でも餅つきをする人が少ないらしく、数年前この機械がお正月の餅つき中に故障したとき大急ぎでエディオンに駆けつけましたが、一升餅を作れるのがなくしかたなく5合用を買ってきました。この機械は1万円くらいで修理できたので引続き使っています。
新しいのは次女にやりましたが、今頃アメリカでも活躍しているのだろうか。

今の餅つき機は、米を研いで水を入れてスイッチを押せばお餅が出来るまで手間いらずらしいのですが、私のは「つけ込み」、「水切り」、「蒸し」+「つき」があり、工程が2段階多いのが傷です。
トリセツに各工程の時間が書かれていないので、毎回、いつ終わるのはそばで見守っています。

つき終わると、ブザーが鳴って片栗粉を敷いたバットに取り出すのですが、これが最も難しい工程。容器を振って餅を出すのですがなかなか出てきてくれません。やっとのことでプロペラごとバットの移すことができました。

今回は、2升つくことにしているので先ずは丸餅から。両手で丸めながら表面の皺を伸ばしていきます。

IMG_6205

バットに収まりきれず5個は別のバットに。合計35個できました。

IMG_6206

最後は冷めてくるので形がまとまりにくい。

2回目は、鏡餅とあん餅やおろし大根用と余れば丸餅にします。

最後の工程のバットに移すところが餅のねばりが一回目よりもしつこく苦闘していたところ、買物に出かける前の妻が現れたので助けてもらい無事バットへの移動完了。

IMG_6207

きれいな鏡餅ができました。

あん餅とおろし大根用の餅も手伝ってもらいました。

IMG_6208

母の家にあん餅を届けるのと昼食用の分で18個取れました。

出来立てのお餅でランチの後、Eテレの「こころの時代」を見た後、実家の母に餅を届ける。丸餅10個とあん餅6個です。

実家に行くと珍しく、尼崎に住む義兄の二男が来ていた。仕事は正月休みに入っていて、家族で来たとのこと。義兄にばあさんに挨拶に行っとけと言われたのだろう。二男の家族はショッピングセンターで買物とのこと。

珍しい来客に舞い上がってしまった母は甥に喜ばれようといろんなものをやろうとする。最近の若い男はモノに執着しないので、何か持って帰れと言われても関心がない。それでも持って帰らそうと必死の母の姿を見ていると悲しいような気がしてくる。

IMG_6213

結局、二箱持って帰らせたが、甥はお茶も飲まずそそくさと帰っていった。

あとで母とあん餅でお茶を飲みながら少し話したが、甥の行動に散々文句を言っていた。
母は、自分のやることが深切のつもりでいるが自分のエゴに溺れていることに気づかない。そろそろはっきり言ったほうがいいと思ったので言っておいたが、果たして理解しただろうか。
この母を悟らせるのが目下の私の最大の課題なのである。

母とケアマネジャーとの面談

今年の春から母の介護ランクは以前の要支援1から要介護1になった。
昨年と比べてそれほど、衰えているように思わないのだが市の担当の判断なので家族として何も言われない。
以前お世話になっていた地域包括支援センターのケアマネージャーも新しい介護支援事業所のケアマネージャーも母の状況を見て介護ランクの引き上げは不思議だと口をそろえていた。

ランクが変わっても母の希望で介護計画は変らなかった。ただし、介護サービス料は少し上がる。介護度が上がるほど手間がかかるという理屈である。国の制度はすべて理屈で成り立っている。

ただし、要介護になるとケアマネの訪問が増える。以前は半年に一回位だったが、要介護になり毎月の訪問となる。

母もじゃまくさがるが見ていると母も人と会って愚痴るのが好きなので、そこそこ気分転換にもなっているように思う。

昨日(12月27日(金))今年最後のケアマネの訪問となる。
母は、人の目をすごく気にする人なので、誰かが来るというと張り切って掃除をして部屋を整理する。この日も掃除をして部屋もいつも以上に片付いている。
ただし仏壇の掃除が途中になっています。

この日も、Nさんに日々の苦情(歯が痛い、ヘルペスが痒い…)と饒舌に話す。

IMG_6199

Nさんも母の元気さと話が面白いのか長くなる。とにかく母の場合、他人から見て深刻さが感じられないので気楽に話が聞けるのだろうと思う。1時間半ほども話が続く。

話が終ってNさんを送っている時、キッチンを通った際、食器棚の中がスカスカになっているのに気づく。

IMG_6202

その話を私がすると、母は勢いづいて、家の片づけ(終活)をやっていることを説明する。

片づけ中の食器。

IMG_6201

ちゃんと来年のカレンダーも用意しています。

さらに「隣の部屋(かつて電気治療のお店のあった広い部屋)」の隅に連れてゆき、処分する食器の状況をえらい勢いで説明する。

IMG_6200

母は「私が死んだらすべてほかして(捨てて)しまう」と残念そういう言う。
何が言いたいかというと、「私の妻は、古い食器をすぐに捨てていつも新しいものにしているが私はモノを大事にしている」ということを言いたいらしい。

Nさんも母の行動と説明に感心して聞いていた。実際、独居老人の部屋はゴミ屋敷になっている人が多いようだが、広い家にしては、まあスッキリしていているし上出来のように思う。

Nさんの帰ったあと、仏壇掃除を手伝って切りのいい所で失礼する。

毎年、元旦の朝祝いは私の家に招いてお雑煮、おせちを一緒に食べるのだが、今年は歯が悪いので行かないと言って頑張っている。

次の日(28日)わが家は餅つきなので、持ってくると言って家を出る。

自分の気元を取ることのできない人である。母が自分で自分の気元を取れるにすること、それが目下の私の使命である。

民主主義は社会のデフォルトなのか?

昨日の記事では文部省教科書「民主主義」について書きました。



書きながらふと思いついたのは、会社時代に私が取り組んでいた「幸せ職場」の活動について、これは会社内の民主化運動だったのだな、と気づいたことでした。

会社というとことは、日本国憲法の規定にもかかわらず完全に「独裁主義」でした。ただ、この独裁主義というのは社長が絶対的権力をもって支配しているというのではなく、それぞれの権限を持つ「長」が絶対的権限を行使してもよい、ということが認められていた、という意味です。
時として理不尽な指示が部下を苦しめることが普通でした。それに若いときから違和感を持っていた私は、そこそこの「長」になったとき、「民主化」運動を始めたわけです。



特定の人には受け入れられたものの、独裁主義の「長」たちには受け入れられず、長らくの左遷生活をしたのですが、左遷生活も楽しみながら34年間のサラリーマン生活を終えました。

当時、私の「民主化運動」を排斥した「独裁主義の長」たちはどう思っていたのでしょうか。思うに、彼らも私の言うことは当たり前なことだと分かっていたに違いありません。しかし、自分が「独裁主義」で勝ち取った地位なのでそれを捨てるわけにはいきません。

内心で私の言うことを「正しい」と思っても受け入れることはできなかったのでしょう。

やはり、「民主主義」は人間の普遍の思想なのではないのでしょうか。だから誰もが独裁国家と認める北朝鮮も正式名称は「朝鮮民主主義人民共和国」と名づけています。

画像

これは、明らかに北朝鮮の歴代指導者が真心の中には「民主主義」を理想としながら、現実の独裁体制は、その理想に至るまでの方便だと思っているのでしょう。

この行動は、私のサラリーマン時代に私の考えをスルーしながら排斥した人々とおなじだったんだなあ、と今になって思っているのです。
ごあいさつ
日々の生活の気づきから人生の成熟を目指しています。

幸せ職場の考え方は、
幸せ職場
をご覧ください。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14
アーカイブ
Yoshiのアーカイブ
Yoshiの他の媒体の過去記事は、以下のリンクでご覧いただけます。
勇気の出る名言集
ギリシア・アルプスの旅
田捨女の不徹庵手記
安全文化論
よそみの楽しみ
最新コメント
メッセージ

記事の内容に関するご意見・ご質問、お問い合わせ等はこちらへどうぞ。

名前
メール
本文
アプリでフォローする
QRコード
QRコード
サイト内google検索
記事検索
yoshiのtweet