日々の気づきノートです。

姉妹ブログ「勇気の出る名言集」を始めました。
過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

2018年05月

さらば、政治よ その3

それでは渡辺さんは、国家と人間との関係はどのようなものであると考えておられるのでしょうか。


  • 私は国家の受益者であるから、それなりの代償は払う。しかしそれ以上は国家と関わらぬ個でありたい。狼のようなフクロウのような、あるいはくぬぎの木のような生きものでありたい。そういう者として人間の仲間を始めとして、万象とともに生きたい。その位相では国家は関係ない。そういう位相の自分でありたい。そういう国家から自立した人間がともに生きうる共同世界を作りたい。そういう人間は現代からの脱落者であるかも知れないが、そうした離脱こそ再生のイニシエーションとならないであろうか。(p33)
あまりにも大きくなりすぎた国家権力を意識すると束縛されてしまう。意識がその人間をつくるという原理からすればその人の意識がどの程度国家に向いているか、ということが生き方に大きな影響を与えることになる。
今の日本という国のことを意識すると暗澹たる気持ちにならざるを得ないが、国家も所詮われわれの頭の中に作り上げた幻想であることを認めれば国から自由になることができる。非国民と言われようが人間であることができる。今の世は非人間な「日本人」がこの国にのさばりすぎている。
渡辺さんの決意は大いに参考になります。
  • 必要なのは自分の精神革命である。つねに淀もうとし、自足しようとし、眠りこもうとする精神の覚醒である。永久革命とはおのれを他者に捧げるという、永久に到達できぬ境地への憧れのことだ。喪われた生甲斐を回復しようとする、生の無意味と戦おうとする、永久の試行のことだ。(p34)
国家は、個人が力の虚しさ感じるところにつけこんでくる。国家の個人への侵略を防ぐには、一人ひとりが自立することが一番です。
  • 日本という国家がどうなるかなんて心配する前に、われわれの生活世界の急速な現代化、すなわち刹那化・非連続化こそ心配してもらいたい。私たちの生の実質は生活世界のありかたにこそ関わっているからだ。(p35)
自分で自分の人生をしっかり生きて行く。これこそが最大の眼目であることに間違いはない。国家がこの目的に貢献してくれることはないし、この目的をわれわれから剥奪することもできない。
最近のメディアに登場する政治家や高級官僚などの姿を見ていると彼らの価値感の程度の低さに驚かされるが、そのことでこの国の先行きを心配する必要はない。
彼らによって、私のこころに指一本触れさせないという覚悟さえあれば平常心で生きていくことができるのです。

さらば、政治よ その2

グローバリズムを問う場合、必ず「国民国家」とは何なのか、ということが当然のこととして問われなければなりません。それを、問わずにバスに乗り遅れるというかけ声に乗ってグローバリズムに身をゆだねるというのが現代の日本なのです。


  • 「国際化」「多元化」の掛け声が盛んになればなるほど、経済の面でも政治・文化の面でも国民国家の制約を、かえって痛切に意識せざるをえない時代に、私たちが生きていることを自覚すべきなのだ。
    「国民国家」は私たちの生の条件であり、必要悪である。いわばそれは快適な牢獄なのだ。そういうものとして、どう対処してゆくべきか。私は大きな口を叩けないがそんなに難しいことでもないと思っている。(p28)
「逝きし世の面影」の読者は渡辺さんを懐古主義者だと勘違いしている人が多いかもしれないが、私は彼を真のリアリストだと思っています。現代の現象を一番の根本である「人間と人間の集団とは何か」という地平から眺め分析している。
  • 問題は国際社会における日本の地位などではない。しゃしゃり出る必要は何もなく、義務を果たすだけでよい。フィンランドやデンマークやブータンは、小国だからといって不幸であろうか。大国幻想とは徹底的に手を切らなければならない。日本はそこに住む人たちにとってよい国になればいいのである、ということは一切の問題は国内の問題になるということだ。(p27)
国家のエゴイズムともとられかねない発言だが、国際紛争を観察してみるとすべては国家のエゴの衝突と言えるものです。
国民を幸せにさせるために国際間の諍いは必要ないのです。これは自分が幸せになるのに他人との諍いが必要でないことと全く同じ心理です。個人にして国家にしても他者との諍いは、自分のエゴ欲求が満足されなければ幸せになれない、という誤った幻想から生まているのです。
  • 私たちは国家の与えるものの受動的な受益者となっている。もっと与えよ、それができぬのは国家の無能と誤った政策のせいだと考える。自分を何かに捧げるのは封建道徳だと教えられている。自分でものを考えているつもりでも、実はメディアと教育によって考えさせられているのに気づかない。自分が自分の主人になれない。みんなで国家を作りあげ、みんなでそれにからめとられて幸せになった。大いなる虚無に包囲されて、ささやかな幸せである。(p32-33)
「自分が自分の主人になれない」という問題は、現代日本が陥った最大の宿痾であろうと思う。自分が自分の主人になることができれば、周りの環境がどうであろうと幸せになることができる。しかし為政者は国民が独立の主人であれば支配しにくいので国民が主人にならないように国家に依存してささやかな幸せに安住することを望むようにもっていこうとする。
その為政者の施策が功を奏して、国民は虚無感の中で生活している。
今の世の中を観察していれば渡辺さんの言っていることが当たっているのがよく分かります。

さらば、政治よ その1

「無名の人生」に引き続き、渡辺京二さんの本から。
最近の政治動向を見ると、実に暗澹たる気持ちになりますが、そのような現実にもかかわらず自分自身は政治に振り回されずに生きることはできるのか、ということを考えていきたいと思います。


  • 政治は善か悪かではなく、善をめざして最小の悪を選択するものである。大きな悪を防ぐために小さな悪を、できるだけ慎重に行使するというのは、人類の今日の状態では仕方のないことなのだ。(p18-19)
国家を形成する以上、全体を何とか一つの方向に進めていかなければならない。そのためには全体が受け入れられるような方向でなければならない。その方向には悪が混じっているかもしれないが、全体の生き残りのためには許容さざるを得ない場合もある。
そのためにさまざまな政治制度が採用されているが、民主制は最悪の選択の回避を目指した政治制度であるともいえる。さまざまな考えをもった人々がそれぞれの意見を表明することによって最悪の選択をしないことを目指した。
しかし、このような意図にもかかわらず特定の考えを実現させることを意図して民主制を悪用し独裁制のごとき運営がなされうる、という現在日本の現実をどう受け止めればいいのでしょうか。

今の世界や日本の政治状況を生み出した大きな要因としてグローバリズムの進展というものがあります。
  • グローバリズムは国境を消失させ国民国家の存在意義を縮小するというのは真赤な嘘である。世界中で何が起こっているか、ちゃんと目を明けるだけでそれは明白である。グローバリズムが進展したからこそ、「民族」間の距離が消失して接触が深まったからこそ「民族問題」が深刻化するのだ。(p24)
確かにグローバリズムの進展の果てに現われた現象が「英国のEU離脱」「トランプ大統領の誕生」「カタロニアの独立問題」であったことを見れば、渡辺さんの言っていることの正当性は明らかです。

この現象を渡辺さんは個人と国家に適用して解説します。
  • 社会が均一化すればするほど個人が「自分らしさ」を説明せねばならないように、世界が均一化すればするほど「民族固有」の文化を言い立てねばならぬのだ。「民族」は歴史の累積的な所産であるので、主観によって超越はできない。(p25)
渡辺さんの慧眼です。民族主義(ナショナリズム)を悪用して国民を繰ろうとした独裁者はいままでたくさん出現したが、結局はぼう大な民族の無意識というエネルギーに巻き込まれて自滅してしまいました。
われわれ日本民族はその痛い経験をしたにもかかわらず、また同じ過ちを繰り返そうとしているのではないだろうか。

無名の人生 その14完

「無名の人生」の最終回です。
渡辺さんは、後世のわれわれに人生を充実させるための秘訣を教えてくれます。

無名の人生 (文春新書)
渡辺 京二
文藝春秋
2014-08-20

  • 人当たりを良くしようとして自分を偽ることをするな。(p167)
人によく見られようとすることは偽善以外のなにものでもありません。これを孔子は「郷原の徒」、親鸞は「善人」と呼んだのでした。
人から良く見られることを好む人が多いなかで、私は若いころから人から良いほうへ誤解されることに違和感を感じ、それを避けるようにしてきたように思います。
特に結婚に際しては、私なりに細心の注意を払ったつもりなのですが、妻は良いほうに誤解したまま私との結婚を決意し、今になって期待を裏切られたと言っているのですが、それは自分が勝手にこしらえた幻想に裏切られた、あるいは自分が自分に裏切られたといっていいのではなかろうか。
今の私の場合、どちらかというと偽悪趣味みたいなものがあるのかもしれませんが、正直にいうと私の今までの人生においては偽善主義に陥った時期もありました。しかし、その時期は他人から見れば良さそうに見えていたかもしれませんが、自分自身は気持ちよくなかったように思います。
  • だいたい宗教家というものは、この俗世ではなく、それを超えたところに人間存在の真実があると考える人たちです。…世間の約束事なんて嘘いつわりであり、それを離れるというところに本当の人間の姿があるのだ、と。(p168)
渡辺さんの定義だと私は「宗教家」ということになるのでしょうか。私は「この俗世ではなく、それを超えたところに人間存在の真実がある」と考えています。このことを疑ったことがありません。逆に、渡辺さんの定義では、現在宗教でメシを食っている人たちは「宗教家」と呼べるような人はいないんじゃないでしょうか。
  • 約束事にしばられ、他人の顔色をうかがいながら、ある職業をまっとうすることも大切だ。けれど、それを超えたところに本来の自分があり、本当の世界があるのだ。そういう考えをつねに心の片隅に持っておいたほうがいい。(p169)
この箇所を読みながら、私は自分にサラリーマンをまっとうしただろうか、と問いかけている。サラリーマン時代に大きな葛藤のあった時期をリアルに思い出して、サラリーマン人生をまっとうするなんてことは私にはそもそも不可能なことであった、と思う。そしてその葛藤を宝として現在の宗教的人生を送ることができているのだということに気づきました。
  • 人間というのは元々肩書きのない存在だ。…職業人として肩書きにふさわしい働き方をすることも大事だけれど、その一方で、肩書きのない自分が本来の自分であることをいつも心の片隅に持っておいてほしい。(p170)
全く私のサラリーマン時代の生活ぶりを表現しているようだ。
  • われわれは、みな旅人であり、この地球は旅宿です。われわれはみな、地球に一時滞在することを許された旅人であることにおいて平等なのです。
     娑婆でいかに栄えようと虚しい。すべてが塵となるのですから。金儲けができなくても、名が世間にゆきわたらなくても、わずか数十年の期間だけこの地上に滞在しながら、この世の光を受けたと思えること。それがその人の「気位」だと思う。(p172)
その通りです。勇気づけらました。
  • この世の光を浴びるとは、自分を自分としてあらしめている真の世界と響き合うこと。この世界ーー自分を取り巻くコスモスとしての世界ーーと交感しながら、人間が生きていることの実質を感じること。これが真の世界と響きあうことでしょう。(p172-173)
結局、宇宙が私において現象しているのだということなのです。

和気アルプス

母が認知症の診断が出てから、一日単位で夫婦で出かけることができるのは月曜日のみになりました。天気予報を見て、月曜日が天気が良ければ少し遠出しようということになります。
5月21日(月)は本来であれば新緑の大山をめぐるドライブを計画していましたが、ちょうどその期間は道路工事で通行止め。代替案で考えていた氷ノ山も宍粟からの林道が道路工事で通行止め。
どうしようか、と思いつつ何も考えていなかったのですが、妻が和気アルプスというのをどこかで紹介されていたのを見つけて行こうという。

特段の下調べもなく、妻が登山口は和気町役場と言うので車のナビを役場にセットして走り始める。

10時頃、和気町役場駐車場に到着。
庁舎に入ってトイレをお借りする。ついでに和気アルプスの情報を聞くために1階の町民課で聞いてみる。すると、2階の商工振興課の担当とのことで2階に上がって聞く。

若い男性の担当者からA4両面コピーの「和気アルプスの登山地図です」という資料をもらう。
IMG_2985

小さい地図で説明を聞いてもあまり要領を得ない。裏面が概念図で裏表見較べながら説明を受けると少し意味が分かってくる。
IMG_2986

担当の方の話では、由加神社が登山口とのことであった。

それではと、立派な町役場から出発します。
IMG_2934

由加神社へは北に向かい橋を渡る。
前の山が和気アルプスということらしい。
IMG_2935

由加神社は古いお宮で、延歴9年(790)和気清麻呂が社殿を再建し、氏祖・弟彦王を配祀、由加八幡宮と称したという伝承があるそうです。清麻呂といえば宇佐八幡の神に神託を聞きにいったという逸話から八幡宮としたのは理解できるところです。
IMG_2936

お参りしたとき、ちょうど本殿では女性二人がお祓いをしてもらっていましたが、安産の祈祷でしょうか。

登山道については特に指示がないのですが、地図を細かく見ると神社の東に道があるようなので、神社の右側を通って登山口を探す。
山の方に向かう細い道があり、それを左に折れてしばらく歩くと登山口がみるかりました。
IMG_2937

竜王山まで600㍍、和気富士まで3.2㌔とあります。
ゲートを開けて登り始める。最近はシカなどの野生動物による被害などがあるが、ここでは秋の松茸シーズンにも閉鎖されるそうです。

登り始めると播州地方と同じような照葉樹林の森です。
IMG_2938

いつも歩いている荒川山塊と同じような山と道がついています。
尾根に主尾根に出ると展望が良い。和気の町が一望です。
IMG_2939

岩が露になった尾根を気持ちよく歩きます。
IMG_2940

ルートぞいに小さな鯉のぼり。風にたなびいています。
IMG_2942

和気は鯉のぼりの生産で有名なのだそうです。

この山域ではヤマツツジが多いようだが、未だに咲いている。
IMG_2943

オレンジ色のヤマツツジはサクラの時分だが、ピンクのは遅いのだろうか。
ツツジの花に元気を得てもう一登りすれが竜王山(標高223㍍)です。
IMG_2945

祠の下にノートがあってメッセージを残せるようになっています。
頂上から下は切り立った崖でこれから行く西側の尾根も標高200-300㍍とは思えないなかなかの雄大な山容です。
IMG_2949

子竜王と和気の町。子竜王にはピストンして行けるが、今回はパスしました。
IMG_2950

ここからは涸沢峰に向かっていったん下ります。
IMG_6569

こうして見ると奥の山並みのおかげで本当のアルプスのような山の深さを感じます。

西に歩いてゆくと涸沢峰を経て穂高山(200㍍)。日陰のないカンカン照りの中、美白対策に余念のない妻。
ここでこの日初めての登山者に遭遇。われわれと反対方向に縦走中。一般的にはそういうルートを取ることが多いようです。縦走ルートは由加神社には降りずに、神ノ上山へ向かうのだという。いつも事前勉強が不十分で「ああそうなんですか」と言うことが多い。
岡山の女性で単独行だがこの山だと。私も独身時代にたくさん単独行したものだが、今思えば孤独であるのは人生における最高のギフトだと思った。
IMG_2952

穂高山から竜王山バットレス(岩壁)を望む。アルプスと呼ばれる所以の景色です。
IMG_2951

そろそろ、ランチの時間も迫ってくるが、日陰がないので先に進むことにする。

間ノ峰頂上。11時半と少し早いが木陰があるのでここで昼食にする。
IMG_2955

頂上の木陰で大きなおにぎりとごつ盛ラーメンでランチにします。
IMG_6572

食事が終わって、下りかけた時に熟年のご夫婦が登ってこられました。この人たちも岡山の方で和気富士から登ってこられたとのこと。
「ご安全に!」と声をかけて右と左に別れる。

ここからまた下ったり登ったりが続きます。
IMG_2956

前の峰からは西側の展望が広がる。吉井川を望む。荒川山塊でいえば夢前川ということになる。本当に姫路の山と似ている点が多い。
IMG_2960

前の峰、岩山、エビ山、観音山と縦走していくが、山名表示が小さいので気づかない内に通り過ぎていく。
観音山の斜面で何かレンガで作った炉のようなものがある。
IMG_2961

これが和気の和字焼きというものらしい。京都の大文字焼にちなんだものらしい。
山の下にはたくさん家があるのでよく見えるでしょう。
あたりにはスペアのレンガも置きっぱなしにしてある。
IMG_2962

荷揚げ用のモノレールもあります。
IMG_2963

それにそって下っていきます。

烏帽子岩。
IMG_2964

岩の上から覗いてみると絶壁だか烏帽子のような形かどうかは分かりません。
IMG_6574

ここからは寺山というピークがあるが最後の和気富士が目標となる。
新緑の木々の間から真正面に和気富士がそびえる。
IMG_2966

右の開けた方角を見ると大きく吉井川が曲がって金剛側に合流しているのがしているのが見える。ところが、さらにここからは見えないが初瀬川という川が金剛側の合流地点とほぼ同じ場所に合流している。いわゆる三川合流地点ということになります。
IMG_2967

和気富士への登りも急です。新緑の中を汗を流しながら登ります。
IMG_2969

頂上近くになり目の前に突如、石垣の跡。
IMG_2970

どうやら城跡のようです。
IMG_2971

戦国末期この地を支配した浦上宗景の家臣明石景行という人が築いたお城。弟の宜行が継ぐが、宇喜多の反乱に呼応して浦上を滅ぼした。その後、宇喜多にしたがい豊臣方につくが宜行は朝鮮の役で戦死し、息子の久蔵も関ヶ原で宇喜多につき敗北し、廃城となった、とのこと。
出世しても生き残るのは難しい戦国時代です。

本丸跡には小さな祠が建っています。けっこうな広さで、かなりの規模の山城であったことがわかります。
IMG_2972

本丸から少し下った二の段に木陰があるのでそこでお茶をする。甘いパンとポットのコーヒーを楽しむ。
IMG_6583

目の下には和気の町と三川合流点。
IMG_2974

下りきるとお稲荷さんの登山口に着く。
IMG_6586

コースガイドの看板もあり、こちらから歩いたほうが分かりやすい。というか、そういう設計になっているらしい。そうであれば、なぜ役場の担当者は反対コースを勧めたのだろうか。謎である。
金剛川の土手の道にでて、富士見橋を渡る。
IMG_2978

富士見橋とは何といいネーミングだろう。秀麗な山です。
ここから役場まで歩いて戻る。
途中、役場の西側の駐車場の車の中で途中で出会った熟年夫婦が車の中で昼食を食べておられた。出合ったのがちょうど真ん中あたりだったのだろうか。

帰り道に、和気アルプスがなければ和気町に来ることもなかったかもしれないと思うと、縁だなあ、と思った。また和気清麻呂、について知る機会にもなりました。とても有意義なハイキングでした。
ごあいさつ
日々の生活の気づきから人生の成熟を目指しています。

幸せ職場の考え方は、
幸せ職場
をご覧ください。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14
アーカイブ
Yoshiのアーカイブ
Yoshiの他の媒体の過去記事は、以下のリンクでご覧いただけます。
勇気の出る名言集
ギリシア・アルプスの旅
田捨女の不徹庵手記
安全文化論
よそみの楽しみ
最新コメント
メッセージ

記事の内容に関するご意見・ご質問、お問い合わせ等はこちらへどうぞ。

名前
メール
本文
アプリでフォローする
QRコード
QRコード
サイト内google検索
記事検索
yoshiのtweet