現在のベトナムではオートバイをたくさん見るが、司馬さんが訪れた40年前も同じであったらしい。
ところが日本に帰ってみると日本人は小さなことを気にしてアレコレ言っている。これは近づくと小さなことに目が付きやすいからだとろうと思う。
実際、ヨーロッパの国々も隣国とは仲があまりよくないようです。
やはりアイデンティティを守ろうとするところから来ているのでしょうね。
- 「オートバイのあるこの消費生活を守ろう」
という目に見える次元のものでは高邁な虚構にはならず、高邁な虚構がなければ教団の形成はできないのである。(p104)
- 日本人は外来のものの型を崩して土着のものと習合させたりする。本地垂迹説があらわれるのは早くも平安初期である。土着神よりも外来神である仏のほうが上であるとし、土着の神々もまた人間と同様迷うとする。かつ、神々は仏法をよろこび、仏法を導崇するとする。土着神が仏法をよろこんで菩薩号をうけたり(たとえば八幡大菩薩)権現号をうけたり(蔵王権現)する。さらには天照大神は大日如来が日本に垂迹して姿だというような本地垂迹説がうまれた。仏教が日本に居つくには、こういう思想的操作が必要だったにちがいない。(p106)
- 人種的偏見というのはステレオタイプ(紋切り型)としてつくられた。(p126)
- ベトナム人だけの問題ではなく、中国人をのぞき、アジア人は一般に小異にきびしくて大同を忘れることがあり、この点は日本人の場合もかわらない。ただ日本人は商売をするときに会社でやるために、会社への忠誠心という別な場でそれが保たれている。一般にアジア人というのは、知識人になればなるほど小異にやかましくなり小異についての論理がするどくなる。(p132)
ところが日本に帰ってみると日本人は小さなことを気にしてアレコレ言っている。これは近づくと小さなことに目が付きやすいからだとろうと思う。
実際、ヨーロッパの国々も隣国とは仲があまりよくないようです。
やはりアイデンティティを守ろうとするところから来ているのでしょうね。