日々の気づきノートです。

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過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

2018年01月

意識と本質 その29

井筒さんは一たる存在の根源と現実の現象は同じものである、と言います。


  • 一切のものが、それぞれ「一者」それ自体であって、それ以外のものは全世界に何一つないのです。ですから例えば、今私が山を見る場合を取ってみますと、私の目前に聳え立つこの山は、今ここでの「一者」の直接無媒介的な自立提示であり、同時にそれを見ている私も、今ここでの「一者」の直接無媒介的自己呈示であります。従ってこういう境地において自身を見ることは「一者」が「一者」自身を見ていることにほかなりません。私が山を見るという極めて単純な経験的事実が、実は「一者」が自らを自らの鏡に映してみるという形而上的事件なのです。だがそれでもやはり経験的あるいは、現象的には私は私であり山は山であります。(p401-402)
論理的には眼で眼を見たり、歯で歯を噛むことはできないのですが、人間はそれをやっていることを認めないわけにはいきません。
よくこれを「海と波」に喩えることもあります。一者たる海に波が立つ。波は一時的な現象だけれども最終的には海に吸収され海という一者に帰ってゆく。
人間や山も結局「一者」から見れば小さな波に過ぎない。海から見れば波が他の波を見ているにすぎない。時間的な違いはあるがどちらも時が来れば海に帰ってゆくしかありません。
では、なぜ人間が山を認識できるか、というと人間という波に意識が発生しているからです。この意識を明確に定義することはできませんが、この意識も海の一部の波であり時間がくれが海に戻っていくモノなのです。
  • 禅本来の観点から言いますと、普通の意味での対話…言語による思想感情の水平的コミュニケーションは全て第二義的なものに過ぎません。…禅に言わせれば、それよりはるか重要な問題、人間実在そのものの存否をかけた大問題があるのです。その大問題は人間の自覚という一事であります。そして人間の自覚は…人間が自己を「無言」の言語化として悟ることを措いてはあり得ないのです。(p407)
正に「眼で眼を見る」、「歯で歯を噛む」とはどういうことかという意味不明な現象を(無理やりに)言語化するプロセスにおいて「悟る」しかないというのです。ここで言われている「自覚」とは「気づき」あるいは「体感」といったものではないかと私は今、考えています。
無理難題なのですが、世界は論理で成り立っているわけではないので、そういうことが起こりうるのです。

意識と本質 その28

引き続き禅問答の意義についての議論がなされます。


  • 禅はこの絶対無限定状態における「現実」が直接端的に実在的体験として味得されることを要求しますが、それは人が言語を超えて、言語の彼方に出なければ実現不可能なのです。(p392)
この文章を読むと「言語を超えて言葉の彼方に出る」なんてこと出来るのか、と思ってしまいますが、実際には人間は常にコトバと意識に頼って生活しているわけではありません。寝ている間やある瞬間には、コトバと意識から離れています。
その間の経験を味わうことはできるのです。眠っている間は完全に意識から離れていますが、夢として無分節の世界の経験をしている。
また、意識の発していない状態も経験することは可能です。時々の自分の行動に意識を集中することでかえって意識を超えることができるのです。
  • 「無名」は「有名」に転じていかずにはおられないのです。そして禅の観想的意識は、本源的形而上学的「一者」が次第に自己分節を重ねつつついに具体的事物事象の世界として完全に現象化された形で現れるところまで「一者」の自己分節の全行程をくまなく辿るべく定められているのであります。(p399)
なるほど、禅の修行プログラムは周到なもののようです。自分の本然である意識の分節作用を利用しながら無分節が分節するありさまを経験するという矛盾したプロセスを人間に経験させようというのです。いわば、「右手で右手を掴む」、「眼で眼を見る」、「歯で歯を噛む」というようなできないことをやらそうとするのです。ところが実際は人間は誰でも日頃からやっていることなのです。
プラトンの「洞窟の比喩」であるように人間が照らされているということをなぜか感じることができるのです。
  • 禅の立場から見てここで一番大切なことは経験的他者界の存在者の一つ一つのどれも「一者」がそっくりそのまま自己を露現した姿として覚知されるという点にあります。(p400)
これは、道元の『正法眼蔵』「現成公案」の「人の悟りを得る、水に月の宿るがごとし。月濡れず、水破れず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水に宿り、全月も弥天(みてん)も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。悟りの人を破らざる事、月の水をうがたざるがごとし。人の悟りを罣礙せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を検点し、天月の広狭を辦取すべし」の消息を言っているのと同じ趣旨のようです。

意識と本質 その27

分節しないで生きて生活する、という禅宗の考えというのはよく分からないのですが、井筒さんは禅には高次の分節があるのだといいます。


  • 趙州の柏樹は禅的に高次の分節によって成立するものであり、それは我をも他のものをも全てを一点に凝集した柏樹である。このように高次の分節によって成立したものを、臨済は「奪人不奪境」と呼ぶ。(p372)
「趙州の柏樹」というのは、『無門関』第三十七則にある話。
  • 一人の僧が趙州和尚に問う。「如何いかなるか是これ祖師西来意――達磨大師がインドからはるばる中国へ来られた真意とは何か?」。
    これに対して、趙州和尚の答えが、「庭前の柏樹子」と応じる。「柏樹」とは、所謂いわゆる、日本の「かしわ」の樹ではなく、柏槙という槇の種類だそうです。趙州和尚の観音院は別名、柏林寺ともいわれ、柏樹が蒼々そうそうと繁っていたといわれます。
趙州は、僧に問われて目の前の柏樹を見てその名で応じたのですね。
僧は、分節した答えを求めて質問したのですが、趙州はその答えに目の前の現実を指して僧に無分節の世界を観よと示したものです。

臨済はこの消息を「奪人不奪境」と言いました。
人は主体である自分(自我)のこと。分節してやろうとする自我を去る。しかし「境」目の前の現実は厳然として、存在している、ということです。

今まで頼りにしていた自我を去るということは難しいようですが、実は、自我自身も幻想です。そのことに気づくと目の前の柏樹(境)も違って見えてくるのです。
  • 禅の立場からして一番大切なのは、人間がやたらに喋りたがる性質をもっているという点にあるのではなくて、喋ること、言語を使うことによって知らず知らずのうちに、その言語の意味論的に押しつけての特別な「現実」の範疇化の林にはまってしまうということがあります。そしてこのことは、禅にとっては、ただちに人間の実在的自由の喪失を意味するのです。(p390)
禅はコトバを否定しているのではなくコトバの使用に伴う陥穽に陥ることに用心しているのです。

意識と本質 その26

井筒さんはコトバに対する警戒感というのが禅宗の基本的なスタンスだというのです。


  • 禅の言語にたいするこのような特殊な態度は、もし人が存在の結晶体から出発し、結晶体においてのみ、存在を見ている限り、無限定者としての存在そのものは絶対に見ることができないという基本テーゼに立っている。(p361)
コトバという結晶体が存在そのものであると見誤れば、人生そのものが錯誤の人生となる。そのことに気づいた人が禅宗を始め禅宗を支えてきたのでしょう。
  • 一たん分節されて結晶体となった存在は、もしもそのものとして固定的、静止的に見られるならば、分節される以前の本源的存在性を露呈するどころか、逆にそれを自己の結晶した形のかげに隠蔽するものである。このような場所では、人は存在を見ずに、ただ存在の夢を見る。
     禅にこの覆いを一挙に取りはらうために言葉を使用する。言語の意味的志向性によって分節された存在を、瞬間的にもとの非分節の姿に還らせるために分節的言語を使用するのである。(p362)
非常に分かりやすい禅の解説だと思います。伝統的に禅宗で読まれる「臨済録」、「無門関」、「碧巌録」などの言葉は確かに人々に分節以前の存在の実相を教えるものとなっています。また道元の「正法眼蔵」も言葉の底に潜む存在を言葉を使って暴くという試みであることがわかります。
  • 主と客をそれぞれ主と客として成立させる可能性を含みつつ、しかしそれ自体は主でも客でもない或る独特の「場(フィールド)」の現成を意味する、主と客、我とものとを二つの可能的極限として、その問いに張りつめた精神的エネルギーの場。(p371)
主と客という「場」ができる不思議。これを論理的に説明することは不可能です。しかしコトバを使って矛盾に気づかせ、主客分離の瞬間を見る(気づくあるいは感じる)ことができるのです。その場の様子とは、
  • 絶対非分節の場は限りなく力動的で柔軟であり、その働きは自由無碍である。(p371)

意識と本質 その25

この後、井筒さんは禅における問題を議論していきます。(「禅における言語的意味の問題)


  • 言語は音声的記号の体系であり、言語記号は対象志向、対象指示機能、すなわち「意味」があってこそ記号である。(p355)
私が、意識(こころ)の発生とコトバの発生が強く関係していると考える主な理由が同じように指摘されていますが、最近の研究では意識の発生はコトバの発生から随分遅れているようです。
  • 「言葉は存在の家だ」とハイデッガーが言った。そこには言語にたいするこの哲学者の深い信頼感がある。(p358)
言葉が存在のすみかになっているというのです。そういえば「旧約聖書」でも神の「光あれ」という言葉で存在が始まったのでした。
一方、禅宗では言葉をどのように考えているのでしょうか。
  • 禅では「言無展事」(洞山守初)という。言語は存在をそのままに、あますところなく提示することができぬ、というのである。…
     しかし、この言語に対するこの不信は日常的、習慣的言語にたいするそれであることが注意されなくてはならない。非創造的言語への不信である。こう考えてみると、禅の「言無居事」はハイデッガーの「言語は存在の家だ」という言葉を裏から言ったものにすぎないことがわかる。(p359)
禅ではコトバは存在そのものではない。しかし、存在の表現の手段ではある、ということを言っているようにも思える。そして、これは確かにハイデッガーの言葉と矛盾するものではありません。
  • 言語は存在の自己限定的開示の場所である。(p359)
これはハイデッガーの言葉を井筒流に言った言葉です。
ごあいさつ
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今宿 葦
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