井筒さんは一たる存在の根源と現実の現象は同じものである、と言います。
よくこれを「海と波」に喩えることもあります。一者たる海に波が立つ。波は一時的な現象だけれども最終的には海に吸収され海という一者に帰ってゆく。
人間や山も結局「一者」から見れば小さな波に過ぎない。海から見れば波が他の波を見ているにすぎない。時間的な違いはあるがどちらも時が来れば海に帰ってゆくしかありません。
では、なぜ人間が山を認識できるか、というと人間という波に意識が発生しているからです。この意識を明確に定義することはできませんが、この意識も海の一部の波であり時間がくれが海に戻っていくモノなのです。
無理難題なのですが、世界は論理で成り立っているわけではないので、そういうことが起こりうるのです。
- 一切のものが、それぞれ「一者」それ自体であって、それ以外のものは全世界に何一つないのです。ですから例えば、今私が山を見る場合を取ってみますと、私の目前に聳え立つこの山は、今ここでの「一者」の直接無媒介的な自立提示であり、同時にそれを見ている私も、今ここでの「一者」の直接無媒介的自己呈示であります。従ってこういう境地において自身を見ることは「一者」が「一者」自身を見ていることにほかなりません。私が山を見るという極めて単純な経験的事実が、実は「一者」が自らを自らの鏡に映してみるという形而上的事件なのです。だがそれでもやはり経験的あるいは、現象的には私は私であり山は山であります。(p401-402)
よくこれを「海と波」に喩えることもあります。一者たる海に波が立つ。波は一時的な現象だけれども最終的には海に吸収され海という一者に帰ってゆく。
人間や山も結局「一者」から見れば小さな波に過ぎない。海から見れば波が他の波を見ているにすぎない。時間的な違いはあるがどちらも時が来れば海に帰ってゆくしかありません。
では、なぜ人間が山を認識できるか、というと人間という波に意識が発生しているからです。この意識を明確に定義することはできませんが、この意識も海の一部の波であり時間がくれが海に戻っていくモノなのです。
- 禅本来の観点から言いますと、普通の意味での対話…言語による思想感情の水平的コミュニケーションは全て第二義的なものに過ぎません。…禅に言わせれば、それよりはるか重要な問題、人間実在そのものの存否をかけた大問題があるのです。その大問題は人間の自覚という一事であります。そして人間の自覚は…人間が自己を「無言」の言語化として悟ることを措いてはあり得ないのです。(p407)
無理難題なのですが、世界は論理で成り立っているわけではないので、そういうことが起こりうるのです。