日々の気づきノートです。

姉妹ブログ「勇気の出る名言集」を始めました。
過去に読んだ本で気に入ったテクストのアンソロジーです。

「勇気の名言集 第2巻」が出版されました。

勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
2022-02-14

2016年06月

山陰地方のお城めぐり その2 月山富田城

富田城跡を目指し米子道を下り、山陰道で松江方面に向かい安来で下り、さらに飯梨川沿いにさかのぼる。
途中、足立美術館の横を通るがさらに南に登ってゆく。

情報収集のため、安来市立歴史資料館に立ち寄る。
ここで月山富山城跡のマップを入手。また、百名城のスランプもここでゲット。
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マップによると現在、富田城跡は整備工事中で途中までしか登れないとのこと。とりあえず行けるところまで登ってみることにする。
歴史資料館でもらったマップによると、
  • 富田は、中世、出雲国を統一し、戦国大名となった尼子氏が、出雲支配の拠点とした城である。尼子氏が城を退去した後は、吉川氏等毛利氏一族が支配した。関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れた後は、吉川氏に替わって堀尾氏が出雲支配の中心地を松江に移すのに伴い、富田城はその役割を終えることとなった。現在残る富田城跡の遺構は、尼子氏が骨格を築き、毛利・吉川氏、堀尾氏によって改修されたものである。
     月山山頂部の曲輪群を詰の城とし、山頂から西北方面に長く延びる尾根上に南から本丸。二ノ丸、三ノ丸、西袖ヶ平といった曲輪を連続して築いている。
     月山中腹部から西北方面に馬蹄状に延びる丘陵部があり、尾根部を大きく削平した曲輪群をはじめとして、腰曲輪や削平段、土塁、堀切、石垣等の多くの城郭遺構がみられる。山頂部と西北丘陵を繋ぐ基部にあるのが山中御殿である。
     富田城の登城道の主要ルートは、北方から菅谷口、飯梨川(城下)方面からの御子守口、南方からの塩谷口が知られている。これら3ルートは全て山中御殿に繋がっている。さらに、山中御殿から山頂部に曲輪群は七曲りと呼ばれるつづら折れの道で結ばれており、縄張りの上から、富田城の中核的な曲輪は山中御殿といえる。
     山中御殿から分岐する支丘陵には、山中御殿から順に、花の檀、奥書院、太鼓檀、千畳平などと呼ばれる大きな曲輪群が連なっている。
尼子氏は、そもそも出雲の守護大名の京極氏から分かれ出雲の守護代であったが、15世紀末、経久が京極氏への室町幕府の税の要求に従わなかったため、守護代の職を解かれたが、経久は富田城を武力により奪い返し、戦国大名となった。以下Wikipediaの記事から。
  • 15世紀末に守護代を継承した持久の孫・経久は、室町幕府からの税の要求に従わなかったため守護職である京極政経により、文明16年(1484年)守護代の地位を剥奪され月山富田城を追われた。新たな守護代として塩冶掃部介が月山富田城に派遣されたが、文明18年(1486年)経久は奇襲により月山富田城を奪い返し、不在の守護・京極氏に代わって出雲の支配権を奪取して、尼子氏を戦国大名に発展させた。
経久は出雲鉄の事業開発や海上交易を行ない、山陰を中心に勢力拡大に励み、
  • 天文6年(1537)、経久は家督を孫の晴久(詮久)に譲っている。晴久の時代には、山陰・山陽八ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護、及び幕府相伴衆に任ぜられた。
ということで勢力を拡大していった。
この時期、長門の守護代だった大内氏も戦国大名として勢力を拡大していた。大内氏に加え、安芸の国人領主から戦国大名として勢力拡大していた毛利元就との三つ巴の勢力争いをしていたのだ。元就は当初、尼子と結んでいたが、後に大内氏の下につく。

出雲地方はたたら製鉄で大きな富を生み出していた。また、出雲銀山は、当初、大内氏が支配していたが、一時尼子氏との間で争奪戦が繰り広げられた。
その三勢力の戦いが2度この富田城で繰り広げられたのだった。この戦のことを月山富田城の戦いと呼ばれている。

第一次月山富田城の戦い
この戦いの前、天文10年(1541)に尼子晴久率いる尼子軍は、毛利氏の本拠である吉田郡山城を攻めたものの、大内軍の援軍を得た毛利軍に撃退された(吉田郡山城の戦い)。この尼子氏による安芸遠征の失敗により、安芸と備後の国人衆は、尼子氏側だった国人領主たちを含めて、大内氏側に付く者が続出した。さらに、安芸・備後・出雲・石見の主要国人衆から、尼子氏退治を求める連署状が大内氏に出されたことを受け、大内義隆は、出雲出兵に踏み切ることになった。なお、大内氏出陣の少し前となる、天文10年11月には、尼子経久が死去している。
天文12(1543)年2月大内軍は富田城を眼下に見おろす京羅木山に本陣を設け富田城を攻める。しかし天然の要害にてて籠もる尼子軍は果敢に応戦し、城は容易に落ちなかった。戦線膠着の中、尼子に寝返る武士が続出し、兵糧も欠乏したため5月に大内義隆は撤退を決定し大内軍は撤退する。敗走の際、大内軍は義隆の養嗣子の春持など多大な犠牲者を出す。

第二次月山富田城の戦い
大内義隆は部下の謀反による大寧寺の変(天文20年(1551年)8月末)で殺害され、その後を毛利元就が勢力を広め、大内氏の領土は毛利家によっておきかえられていった。
第二次月山富田城の戦いは、毛利元就が永禄7年(1563)から富田城を包囲し、糧道を遮断し、城下の田畑を焼き払い城は完全に孤立した。永禄8年4月、毛利軍は総攻撃を開始したが尼子軍も城を背に応戦したので、毛利軍は一旦引き、元就は作戦を徹底した兵糧攻めに戦法を変更した。
城内から相次いで投降者が出たが、富田城はそれでも堪えたが、永禄9年11月に城主、尼子義久の降伏の使者を元就に出し、尼子氏は滅亡した。
しかし、山中幸盛(鹿之助)は尼子勝久を擁立し尼子家復興のために奮迅の働きをするが、あまり長くなるので今回の学習はこれまでにする。

歴史資料館を後に南に進むと登山口の手前に大きな看板がある。
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その横に、月山富田城の想像図と立体模型がある。

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想像絵図
 
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立体模型

道端にある見学施設だが特に立体模型がよくできている。
谷沿いの道を離れて左の階段を登って行く。このルートが「お子守口」と言います。
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お城ブームで他にも何人か歩いている。立派なモミジの木が多く、今は新緑が美しいが、秋の紅葉もさぞきれいなことだろう。
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登り切ったところが千畳敷で、奥に尼子神社がある。
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小さな祠だが、緑の中で静かに佇んでいるのがいかにも魂の安らぎを感じる。
神社の右を通って「太鼓檀」の奥に山中鹿之助の像がそびえている。
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三日月に向かい「願わくば我に七難八苦をあたえたまえ」と祈ったと言われている。
普通の人間でそんなことを願う人はいないだろうが、積極精神ができてしまった人はそんなことを言うかもしれない。
さらに「奥書院」のあった曲輪を通っていったん谷を下って登り返すと「花の檀」に到る。
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ここからは、本丸方面が良く見える。
建物は、侍所を復元したものとのこと。余り意味がわからない。

花の檀の一番端まで行ってみると、本丸方面の崖が真正面に見える。
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山崩れなのだろうか、木が根こそぎなくなっている。探してみたが「月山富田城 がけ崩れ」で検索したが、それらしき情報はない。下の売店のお姉さんに聞いたら、良く見えるように木を切ったのではないか、と言っていたが本当だろうか。


花の檀には立派な石垣のオリジナルなものが残っていた。現状では、見ることの出来る数少ない石垣だと思います。
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また登りかえすと山中御殿が間近に望める場所に出る。
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下の石垣が、山中御殿の石垣だが立派なものだ。この山城全体のヘソに当たる重要な部分になります。今も大規模な工事をやっています。

ここまでが立ち入りの限界です。
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本丸まで登れなくて残念でしたが、登らなかったおかげで、時間の余裕がっできたおかげでこの後、すてきな学びの機会を得ることができました。
ちょっと長くなりましたのでここまでにします。

山陰地方のお城めぐり その1 津山城

私の妻の趣味でしばしばお城めぐりのお供をしています。

当初、2泊3日で熊本と大分のお城めぐりを予定していました。ところが4月に熊本地震があり熊本と大分に大きな被害がありました。
旅行予定は、5月下旬なのでしばらく様子を見ていますと、GWを過ぎて地元からも復興の意味から自粛よりも観光に来てください、というような声もあり、こういう時だからこそ行ってみてはどうだろうと考えて、宿の手配をしようとしたら、宿の方も被害があるらしく休んでいるところもあり、思うように予約が取れません。
しかたないので熊本、大分の皆さんのご健闘と復興をいのりつつ別のコースを検討。中国地方のお城めぐりに決めました。

日程は、5月21-23日の3日間です。
津山城、松江城、月山富田城、郡山城、津和野城の5つです。萩城も行けないこともなさそうだったのですが、3日では収まらないような気がしたので、欲張らず5つに決定。

天気予報も良さそうなので5月21日朝8時半に車で自宅を出発。
中国道経由、ノンストップで10時に最初の訪問地、津山城に到着。坂の上の駐車場(無料)に車を停めて歩いてお城に向かう。
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高い石垣です。とてもきれいな積み方です。

券売所の横に津山城の復元図がありましたが、とても大きなお城であったことがわかります。
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姫路城と似た感じですが、一番下の石垣が高く、高度感は姫路城よりすごい。これは山自体の高さによるような気がしますが櫓の数では、広島城や姫路城をしのぐ大きさだったらしい。

お城というのは見かけが大事で、最初に作ったお殿様は、自分の自我の満足のためというのが最大のインセンティブだったでしょうが、実際には民に対する権威の象徴としての意味が最も大きかったでしょう。このことが、平和な封建制260年の維持に役立ちました。

それにしても日本全国に大きなお城があるが、このエネルギーは一体どこから出てきたのだろうか。いつもながらそれを不思議に思う。

鶴山公園の入場料300円を払ってお城に向かう。チケットの裏の説明では、
  • 「本能寺の変」で討死した森蘭丸の弟、森忠政が入封(1603年)の翌年から13年をついやいして築いた津山城の城跡公園です。天守閣や付属物は明治7年に取りこわされましたが、三層の石垣が完全に残り、往時の雄大な面影をとどめています。 
    巧妙に積み上げた石垣の線と戦略的な構造は全国に例のないもので高く評価され昭和38年に平山城の典型として国の史跡に指定されました。
森忠政は、元亀元年(1570)織田信長の家臣であった森可成の六男として美濃金山城で生まれる。生まれた年に可成が戦死し、長男も同年戦死したため、家督は次男の長可が継いでいた。忠政は幼少の時には信長の小姓であったが、いたずらでなぜ免ぜられた。そのまま信長の小姓をしていれば兄の成利(蘭丸)や2人の兄弟と運命を共にしていたことになるから、人生はわからないものです。家督を継いだ次男の長可が天正12年(1584)に戦死した後の経緯について、Wikipediaでは、
  • 天正12年(1584年)4月9日、兄の長可が小牧・長久手の戦いで戦死。この時点で既に他の兄達は全て早世しており、森家の世継ぎは長重(注:後の忠政のこと)のみであった。長可戦死後、遺言状が羽柴秀吉に提出されたが長可は遺言書で長重への家督相続について「あとつぎ候事、いやにて候」と書き、更には金山は誰か信頼できる武将に任せて長重は秀吉の元で奉公するようにと指定するなど長重の家督相続にかなり否定的であったが、秀吉も自分に味方した武将の領地を没収する訳にはいかず遺言のこの一節は無視して、長重を金山7万石の跡継ぎとして指名し各務元正・林為忠の両家老を後見役に任命。森家も金山にそのままとどめ置かれた
男子6人の森家であっても戦乱の時代に家を維持するのは難しい。
家督をついだ忠政は秀吉につき、朝鮮出兵時の名護屋城や伏見城の普請をしているから、お城の普請については、相当のプロであったのだろう。
豊臣家での功績により慶長5年(1600年)、信濃国川中島13万7,500石への加増転封される。この件については、家康の意向があったようだ。真田に手を焼いていた家康が森家を抑えにとの意図であるから、家康の忠政に対する信頼のあつさが推測される。

関ケ原の戦いでは、石田三成が川中島に赴き忠政に豊臣側につくように説得するが、豊臣家を非難し三成を追い返してしまう。その後、三成は真田昌幸に「秀頼様を騙し領地を掠め取った」という趣旨の手紙を書いているのだそうだ。
関ケ原では、家康方に付いたが、やはり上田城の真田の抑えとしての働きが見てとれる。

慶長8年(1603)、関ケ原で東軍に寝返った小早川秀秋の死(わずか21歳)によって小早川家が無嗣改易され忠政は美作国一国18万6,500石(津山藩)へ加増転封された。
忠政は、13年の歳月をかけ、鶴山に津山城を築く。当初は院庄にお城を築いていたが、忠政は重臣の井戸宇右衛門とそりが合わなかったらしく、院庄で築城の監督をしていた宇右衛門を暗殺する。いやけがさした筆頭家老の林為忠を初めとする林一門が出奔したというから、よほど不徳なお殿様であったようです。
結局お城は、今の鶴山に作ることになり、名前も津山としたらしいたしかに「つるやま」より「つやま」の方が言いやすいが、別に変えなくてもいいとは思いますが。

なかなか面白い歴史ですが、このようなお城の歴史は、すべて後で知ったことです。

公園入口を通り、立派な階段を登ります。
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こんな幅の広い階段は見たことがありません。
登ったところが三の丸になります。
見上げると備中櫓がそびえています。
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桜の木が多いです、桜の名所でも有名で日本さくら名所100選にも選ばれています。

三の丸広場から下を望むと、津山の町が広がります。
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この日は暑い日でした。木陰でお茶にすることにする。
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家で入れてきたコーヒーとお菓子で一服します。
津山は「寅さん」にあったんじゃないかな、と思い出し早速、妻のスマホで確認。最終回の48作「寅次郎紅の花」でした。

泉(後藤久美子)の結婚式の場面だったのです。詳細なロケ地調査をされている人の詳細記事があります。この方は、軽四で車中泊の寅さんのロケ地巡りをされているようです。

目の前を見ると「津山国際ホテル」です。
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映画では、泉の結婚式の会場であった所です。
最終回の第48作は、神戸の震災のあった年の12月に封切りでしたが、最終回にふさわしい力の入った映画でした。おそらく、監督の山田洋二、寅さんの渥美清さんもこれが最後かもしれない、という意識があったのではないかと思います。

そんなことを思いながら、三の丸からさらに広い階段を登り二の丸を経て本丸へ。

途中に、不定根誘導実験中という掲示のある古い桜の樹を発見。
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植物でも動物でも病で組織が使えなくなった場合、自然治癒としてバイパス組織を自分で作り出すのですね。えらいもんです。

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本丸はとても大きな広場になっています。ここのお城では二の丸、三の丸は本丸に到る限定的なもののような扱いになっています。幕藩時代の武士たちは、仕事のために毎日ここまで登ってきたのですね。
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姫路城だと、三の丸に行政機構のほとんどがあっただろうから、武士たちの通勤は楽だったでしょう。そう言えば、階段がとても広かったけれど、たくさんの人達が本丸に登るために必要だったというのが分かります。

備中櫓に入ります。百名城スタンプはここの受付に置いてありました。
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ここのお城も明治6年(1873)廃城令により大蔵省管理となり競売され、明治7年 - 明治8年(1874 - 1875)天守・櫓などの建物が悉く破却されています。不要なものはとっとと廃棄というのは理解できるお話です。
しかし日本人はお城好きの人が多い。津山でもそのようで、備中櫓は、平成14年(2002)築城400年を記念して復元されました。この櫓は、詳細な図面が残されていたので、このような立派な復元が可能になったのです。
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備中櫓のすぐ横から天守台への五番門がありさらに六番門の後、天守台の石垣の下に出ます。
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天守台の上から、天守内部。
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結構な高さがあるが、手摺とかは一切ありません。大丈夫かな、と思っていると、妻は天守台の少し低くなった細い所を日傘片手に歩いている。
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テーマパークの絶叫マシンがダメなので高所が苦手かと思いきや、平気なのを初めて知りました。30年以上の付き合いですが、私の知らないところはまだまだ多いようです。

津山城を後に、次の行先は月山富山城だが、昼食をどうするか、と考えていると妻が友達から聞いた亀甲駅に行くという。
聞いたことがありませんが、隊長の指示なのでナビをセットして車を走らせる。
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時計の目をした亀さんがお出迎えです。
津山線の駅で、駅近くに亀の甲羅のような岩があることから「亀甲」の名があるとのこと。
駅内にはマップはなく、駅前の大きな観光看板では亀甲岩は駅前すぐのところにあるようだが、歩き回っても見当たらない。
たまたま、タクシーが一台戻ってきたので聞いてみたら少し離れている。看板の地図では想像できない場所です。
車で向かいます。
広場の横にありました。巨大な亀甲岩。
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伝説によると、
  • 昔、日本回国の旅人がこの地で行き倒れた。それを里人が哀れんでこの地に埋葬したところ、ある青い月の夜に、巨大な岩が弘法大師の尊像を乗せてせり上がったという。この岩の形が亀に似ていたために、「亀の甲岩」と言われるようになった。
とのことです。今は、岩の上に大日如来の石碑が乗っていますが、弘法大師は大日如来の生まれ変わりであることを示しています。

そういえば、今日は鶴山の津山城を訪れた後に、亀甲岩を尋ねていますから、鶴亀を一度に訪れたことになります。幸先の良い旅となりました。

近所に卵かけごはんの有名な「食堂かめっち」というのがあって行ってみましたが、駐車場がいっぱいで待たないといけないということで今回はパス。また、中国道に戻り米子道に乗る。

少し遅くなりましたが、蒜山SAで昼食。
大山をバックに食後のジャージーミルクのソフトクリーム。
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月山富田城に向かいますが、長くなったので次の回に。 

今の力 その53 完

思考やエゴは、抵抗することによってパワーを獲得するしかありません。しかし、起こってしまった現実を変えることはできません。そこに間違い(機能不全)があるのです。
  • エゴは抵抗することが強さの証だと信じています。ところが抵抗こそがわたしたちを、唯一のパワーの源である「大いなる存在」から切り離してしまう、というのが真実なのです。抵抗は弱さです。それは、強さという仮面をかぶった恐れにほかなりません
固執して抵抗することをやめさえすれば大いなる存在のパワーを存分に受けることができるのです。
逆に、
  • 「手放すこと」によってのみ、人は「裸」になり、「傷つきやすく」なります。しかし、そうしてはじめて「ほんとうの自分」が殻を破って姿をあらわし「ほんとうの自分」は、決して「傷つかない」ことを発見するのです。
世間では、人は傷つくことを極端に嫌うものですが、傷つくのは自分のプライドやエゴに過ぎません。本当の自分とはプライドやエゴ、仮面ではありません。深いところにある魂なのです。魂は決して傷つくことはありません。だって、肉体が死んで心が肉体から離れてしまってもエネルギーとして生き残るはずですから。

病の時も、「いま」に問題がないことに気づき、手放す経験をするチャンスでもあります。
  • 「いま」には、なんの問題も存在できないように、病気も存在できません。自分の症状に、誰かが貼り付けたレッテルを信じる気持ちが、その症状にパワーを与え、その症状を維持させているのです。すると一時的なバランスの崩れは、あたかも確固とした事実であるかのようになってしまいます。症状を確立してしまうだけではなく、症状に時間を与えてしまうことにもなるのです。
    「いま、この瞬間」に意識を集中し、症状にレッテルを貼るのをやめれば、「病気」と名づけられるものは、「身体的痛み」、「虚弱」、「不便さ」(または「障害」)のうちの、いずれかの症状に括られるはずです。その症状が、あなたが「いま」抵抗するのをやめるべきものです。これは、「病気」をあきらめるという意味ではなりません。苦しみを「いま、この瞬間」へと自分を追いつめ強烈に「在る」状態へと導くための原動力とするのです。さとりをひらくための原動力とするのです。
「手放す」とは真の意味で手放すことであり、それによって「手放すもの」が変化するのではありません。自分自身が変容するのです。
  • 「手放す」ことは直接的には、「すでにそうであるもの」を変容しません。「手放すこと」で、わたしたち自身が変わるのです。わたしたち自身が変わるのです。わたしたちが変わる時、わたしたちの住む世界もすべて変わります。・・・世界は意識の投影にすぎないからです
この真理を知ることができれば、
  • 「いま」につながれば、過去は無力になり、自分がこれまでしてきたこと、されたことは、「ほんとうの自分」という輝かしい本質を傷つけるどころか、それをかすりもしなかったのだと、心の奥で気づきます。
まさに無敵の人生になります。実際、「敵」というものはエゴが作り出すものなのですから。
トールはこのことを、
  • すると「許し」という概念そのものが、不必要になります。
とまで言うのです。そりゃあ、「ほんとうの自分」は決して傷つけることができないのですから当然のことなのです。

長いシリーズになりましたが、「今の力」は今回で終了です。

さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる
エックハルト・トール
徳間書店
2002-06


皆さんが、エゴや思考が幻想であることを見極め、「ほんとうの自分」を再発見されることをお祈りいたします。 

今の力 その52

すでに起こってしまったこと、現実にあることを否定することは、別の言葉で言うと現状に不満を表明していることになります。そうすると、「思いは実現する」という法則により不満な状態を実現させることになってしまうのです。
  • 人生の流れを実感できる場所は、「いま、この瞬間」しかありません。「手放すこと」は「いま、この瞬間」を、なんの不安も抱かずに、無条件に受け入れることです。「すでにそうであるもの」に対する心の抵抗を捨て去ることです。・・・「すでにこうであるもの」を受け入れたとたん、思考から解放され「大いなる存在」につながることができます。
心の中から「抵抗」を取りさってしまうと、そのスペースに「平安」が入ってくるのです。「平安」とは「大いなる存在と同じことです。
これは、「思いは実現する」という「原因と結果の法則」でジェームズ・アレンの言っていることと同じことです。

「原因」と「結果」の法則
ジェームズ アレン
サンマーク出版
2003-04


自分が起こってほしくないことが起こってしまった時、人はそのことを受け入れたくないので拒否します。しかし、それは起こってしまったことがない状態を思うのではなく、現実に不満であることを思ってしまうことになるのです。
現実に抵抗すればするほど、現実は「自分が抵抗するような状況」になっていくのです。

何かに固執することをやめてそれを手放す。そうすれば、固執するという苦しみから逃れることができるのです。
  • 自分がどんな未来を歩むのかを決定する、中心的な要素は、「いま、この瞬間」の意識のクオリティです。それゆえに、ポジティブな変化をもたらすのに、わたしたちにできる一番重要なことは、「手放すこと」なのです。「手放すこと」と比べたら、行動そのものは二次的です。「手放すこと」をしていない意識からは、共にポジティブな行動は生まれません。
逆説的ではあるのですが、「手放す」という行為が最もポジティブな選択なのです。人の人生は今の選択で決まっていくのです。ポジティブな選択が人生を開いてゆくのですが、最もネガティブそうな「手放す」ことが最もポジティブな現実を引き寄せるのです。

今の力 その51

とにかく「いま、ここ」以外に何かを求めることをしないことです。
  • 「いま、自分がいる状態」以外の状態を探してはなりません。そうすると無意識のうちに、軋轢や抵抗をこころにつくりだすことになります。平和の境地にいない自分を、あるがままに受け入れるのです。自分が「非・平和」にいることを、完全に受け入れた瞬間、「非・平和」は、平和に変わります。わたしたちが「なにか」を完全に受け入れると、それがどんなものでも、わたしたちはその「なにか」を超越することができるのです。つまり、「非・平和」を超越することで平和へと到達できるのです。
何物であっても受け入れないということは、存在を否定することになります。存在を否定して自分の心や身体にストレスがかからないわけがありません。
そのストレスが機能不全を起こすのです。このことが存在のパワーを削ぐ結果になるのです。
当面する状況がどんなものであっても、そのことを否定せず受け入れてみる。その結果が気に入らなかったら止めればいいのです。とにかく一度やってみることです。

このように受け入れることに成功した人はどうなるかというと、
  • 思考から解放されている人は、・・・時間を超越した「大いなる存在」に安住しているのです。もう、たえまなく変化するかたちの世界に幸福を求めてよりかかったりしません。かたちのあるものは、好きなだけ楽しみ、遊んでいいのです。新しいものを創造し、その美を堪能するのもいいのです。でもそれにしがみつく必要はありません
相対的なものは楽しむのに使えばいいのです。しかし、それに依存したりしがみついたりしてはいけない。大事なのはこれだけです。
そのために、今を意識することです。今に意識を集中していれば、ドラマは生まれません。
  • 結果のレベルに働きかけはじめると、状況の中に自分を見失ってしまうことはよくあります。しっかりと目を覚まし、強烈に「いま」に在り続けましょうわたしたちが一番的を絞るべきなのは、原因のレベルです。わたしたちの主なゴールは、さとりを人々に広めることです。そしてわたしたちの、世界への一番貴重な贈り物は「平和」です。
今に集中していると「原因」が見えてくるのですが、気をそらすと結果しか見えてきません。原因を見逃して結果に翻弄されているというのが残念ながら、現代社会の実情です。
目覚めた人が、世界に真実を広めていくことしかありません。 
ごあいさつ
日々の生活の気づきから人生の成熟を目指しています。

幸せ職場の考え方は、
幸せ職場
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勇気の名言集 第2巻
今宿 葦
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