富田城跡を目指し米子道を下り、山陰道で松江方面に向かい安来で下り、さらに飯梨川沿いにさかのぼる。
途中、足立美術館の横を通るがさらに南に登ってゆく。
情報収集のため、安来市立歴史資料館に立ち寄る。
ここで月山富山城跡のマップを入手。また、百名城のスランプもここでゲット。
マップによると現在、富田城跡は整備工事中で途中までしか登れないとのこと。とりあえず行けるところまで登ってみることにする。
歴史資料館でもらったマップによると、
この時期、長門の守護代だった大内氏も戦国大名として勢力を拡大していた。大内氏に加え、安芸の国人領主から戦国大名として勢力拡大していた毛利元就との三つ巴の勢力争いをしていたのだ。元就は当初、尼子と結んでいたが、後に大内氏の下につく。
出雲地方はたたら製鉄で大きな富を生み出していた。また、出雲銀山は、当初、大内氏が支配していたが、一時尼子氏との間で争奪戦が繰り広げられた。
その三勢力の戦いが2度この富田城で繰り広げられたのだった。この戦のことを月山富田城の戦いと呼ばれている。
第一次月山富田城の戦い
第二次月山富田城の戦い
大内義隆は部下の謀反による大寧寺の変(天文20年(1551年)8月末)で殺害され、その後を毛利元就が勢力を広め、大内氏の領土は毛利家によっておきかえられていった。
第二次月山富田城の戦いは、毛利元就が永禄7年(1563)から富田城を包囲し、糧道を遮断し、城下の田畑を焼き払い城は完全に孤立した。永禄8年4月、毛利軍は総攻撃を開始したが尼子軍も城を背に応戦したので、毛利軍は一旦引き、元就は作戦を徹底した兵糧攻めに戦法を変更した。
城内から相次いで投降者が出たが、富田城はそれでも堪えたが、永禄9年11月に城主、尼子義久の降伏の使者を元就に出し、尼子氏は滅亡した。
しかし、山中幸盛(鹿之助)は尼子勝久を擁立し尼子家復興のために奮迅の働きをするが、あまり長くなるので今回の学習はこれまでにする。
歴史資料館を後に南に進むと登山口の手前に大きな看板がある。
その横に、月山富田城の想像図と立体模型がある。
道端にある見学施設だが特に立体模型がよくできている。
谷沿いの道を離れて左の階段を登って行く。このルートが「お子守口」と言います。
お城ブームで他にも何人か歩いている。立派なモミジの木が多く、今は新緑が美しいが、秋の紅葉もさぞきれいなことだろう。
登り切ったところが千畳敷で、奥に尼子神社がある。
小さな祠だが、緑の中で静かに佇んでいるのがいかにも魂の安らぎを感じる。
神社の右を通って「太鼓檀」の奥に山中鹿之助の像がそびえている。
三日月に向かい「願わくば我に七難八苦をあたえたまえ」と祈ったと言われている。
普通の人間でそんなことを願う人はいないだろうが、積極精神ができてしまった人はそんなことを言うかもしれない。
さらに「奥書院」のあった曲輪を通っていったん谷を下って登り返すと「花の檀」に到る。
ここからは、本丸方面が良く見える。
建物は、侍所を復元したものとのこと。余り意味がわからない。
山崩れなのだろうか、木が根こそぎなくなっている。探してみたが「月山富田城 がけ崩れ」で検索したが、それらしき情報はない。下の売店のお姉さんに聞いたら、良く見えるように木を切ったのではないか、と言っていたが本当だろうか。
花の檀には立派な石垣のオリジナルなものが残っていた。現状では、見ることの出来る数少ない石垣だと思います。
また登りかえすと山中御殿が間近に望める場所に出る。
下の石垣が、山中御殿の石垣だが立派なものだ。この山城全体のヘソに当たる重要な部分になります。今も大規模な工事をやっています。
ここまでが立ち入りの限界です。
本丸まで登れなくて残念でしたが、登らなかったおかげで、時間の余裕がっできたおかげでこの後、すてきな学びの機会を得ることができました。
ちょっと長くなりましたのでここまでにします。
途中、足立美術館の横を通るがさらに南に登ってゆく。
情報収集のため、安来市立歴史資料館に立ち寄る。
ここで月山富山城跡のマップを入手。また、百名城のスランプもここでゲット。
マップによると現在、富田城跡は整備工事中で途中までしか登れないとのこと。とりあえず行けるところまで登ってみることにする。
歴史資料館でもらったマップによると、
- 富田は、中世、出雲国を統一し、戦国大名となった尼子氏が、出雲支配の拠点とした城である。尼子氏が城を退去した後は、吉川氏等毛利氏一族が支配した。関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れた後は、吉川氏に替わって堀尾氏が出雲支配の中心地を松江に移すのに伴い、富田城はその役割を終えることとなった。現在残る富田城跡の遺構は、尼子氏が骨格を築き、毛利・吉川氏、堀尾氏によって改修されたものである。
月山山頂部の曲輪群を詰の城とし、山頂から西北方面に長く延びる尾根上に南から本丸。二ノ丸、三ノ丸、西袖ヶ平といった曲輪を連続して築いている。
月山中腹部から西北方面に馬蹄状に延びる丘陵部があり、尾根部を大きく削平した曲輪群をはじめとして、腰曲輪や削平段、土塁、堀切、石垣等の多くの城郭遺構がみられる。山頂部と西北丘陵を繋ぐ基部にあるのが山中御殿である。
富田城の登城道の主要ルートは、北方から菅谷口、飯梨川(城下)方面からの御子守口、南方からの塩谷口が知られている。これら3ルートは全て山中御殿に繋がっている。さらに、山中御殿から山頂部に曲輪群は七曲りと呼ばれるつづら折れの道で結ばれており、縄張りの上から、富田城の中核的な曲輪は山中御殿といえる。
山中御殿から分岐する支丘陵には、山中御殿から順に、花の檀、奥書院、太鼓檀、千畳平などと呼ばれる大きな曲輪群が連なっている。
- 15世紀末に守護代を継承した持久の孫・経久は、室町幕府からの税の要求に従わなかったため守護職である京極政経により、文明16年(1484年)守護代の地位を剥奪され月山富田城を追われた。新たな守護代として塩冶掃部介が月山富田城に派遣されたが、文明18年(1486年)経久は奇襲により月山富田城を奪い返し、不在の守護・京極氏に代わって出雲の支配権を奪取して、尼子氏を戦国大名に発展させた。
- 天文6年(1537)、経久は家督を孫の晴久(詮久)に譲っている。晴久の時代には、山陰・山陽八ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護、及び幕府相伴衆に任ぜられた。
この時期、長門の守護代だった大内氏も戦国大名として勢力を拡大していた。大内氏に加え、安芸の国人領主から戦国大名として勢力拡大していた毛利元就との三つ巴の勢力争いをしていたのだ。元就は当初、尼子と結んでいたが、後に大内氏の下につく。
出雲地方はたたら製鉄で大きな富を生み出していた。また、出雲銀山は、当初、大内氏が支配していたが、一時尼子氏との間で争奪戦が繰り広げられた。
その三勢力の戦いが2度この富田城で繰り広げられたのだった。この戦のことを月山富田城の戦いと呼ばれている。
第一次月山富田城の戦い
この戦いの前、天文10年(1541)に尼子晴久率いる尼子軍は、毛利氏の本拠である吉田郡山城を攻めたものの、大内軍の援軍を得た毛利軍に撃退された(吉田郡山城の戦い)。この尼子氏による安芸遠征の失敗により、安芸と備後の国人衆は、尼子氏側だった国人領主たちを含めて、大内氏側に付く者が続出した。さらに、安芸・備後・出雲・石見の主要国人衆から、尼子氏退治を求める連署状が大内氏に出されたことを受け、大内義隆は、出雲出兵に踏み切ることになった。なお、大内氏出陣の少し前となる、天文10年11月には、尼子経久が死去している。
天文12(1543)年2月大内軍は富田城を眼下に見おろす京羅木山に本陣を設け富田城を攻める。しかし天然の要害にてて籠もる尼子軍は果敢に応戦し、城は容易に落ちなかった。戦線膠着の中、尼子に寝返る武士が続出し、兵糧も欠乏したため5月に大内義隆は撤退を決定し大内軍は撤退する。敗走の際、大内軍は義隆の養嗣子の春持など多大な犠牲者を出す。第二次月山富田城の戦い
大内義隆は部下の謀反による大寧寺の変(天文20年(1551年)8月末)で殺害され、その後を毛利元就が勢力を広め、大内氏の領土は毛利家によっておきかえられていった。
第二次月山富田城の戦いは、毛利元就が永禄7年(1563)から富田城を包囲し、糧道を遮断し、城下の田畑を焼き払い城は完全に孤立した。永禄8年4月、毛利軍は総攻撃を開始したが尼子軍も城を背に応戦したので、毛利軍は一旦引き、元就は作戦を徹底した兵糧攻めに戦法を変更した。
城内から相次いで投降者が出たが、富田城はそれでも堪えたが、永禄9年11月に城主、尼子義久の降伏の使者を元就に出し、尼子氏は滅亡した。
しかし、山中幸盛(鹿之助)は尼子勝久を擁立し尼子家復興のために奮迅の働きをするが、あまり長くなるので今回の学習はこれまでにする。
歴史資料館を後に南に進むと登山口の手前に大きな看板がある。
その横に、月山富田城の想像図と立体模型がある。
想像絵図
立体模型
道端にある見学施設だが特に立体模型がよくできている。
谷沿いの道を離れて左の階段を登って行く。このルートが「お子守口」と言います。
お城ブームで他にも何人か歩いている。立派なモミジの木が多く、今は新緑が美しいが、秋の紅葉もさぞきれいなことだろう。
登り切ったところが千畳敷で、奥に尼子神社がある。
小さな祠だが、緑の中で静かに佇んでいるのがいかにも魂の安らぎを感じる。
神社の右を通って「太鼓檀」の奥に山中鹿之助の像がそびえている。
三日月に向かい「願わくば我に七難八苦をあたえたまえ」と祈ったと言われている。
普通の人間でそんなことを願う人はいないだろうが、積極精神ができてしまった人はそんなことを言うかもしれない。
さらに「奥書院」のあった曲輪を通っていったん谷を下って登り返すと「花の檀」に到る。
ここからは、本丸方面が良く見える。
建物は、侍所を復元したものとのこと。余り意味がわからない。
山崩れなのだろうか、木が根こそぎなくなっている。探してみたが「月山富田城 がけ崩れ」で検索したが、それらしき情報はない。下の売店のお姉さんに聞いたら、良く見えるように木を切ったのではないか、と言っていたが本当だろうか。
花の檀には立派な石垣のオリジナルなものが残っていた。現状では、見ることの出来る数少ない石垣だと思います。
また登りかえすと山中御殿が間近に望める場所に出る。
下の石垣が、山中御殿の石垣だが立派なものだ。この山城全体のヘソに当たる重要な部分になります。今も大規模な工事をやっています。
ここまでが立ち入りの限界です。
本丸まで登れなくて残念でしたが、登らなかったおかげで、時間の余裕がっできたおかげでこの後、すてきな学びの機会を得ることができました。
ちょっと長くなりましたのでここまでにします。