善の根拠 (講談社現代新書)
南 直哉
講談社
2014-12-17


南禅師においては、仏教を選択するのは「賭け」であるという。

「賭け」は「信仰」とは違う。「信仰」の対象は肯定すべきものとすでに定まっている。ただし、それを「信仰」するためには、「対象は存在しないかもしれない」「対象は「対象は間違っているかもしれない」と疑う余地がなければならないが。(p34-35)

科学信仰の現代人にとって、頭から信じるということほど困難なことはない。しかし、南さんの言う「賭け」という立場は可能だ。
しかし、よくよく考えてみると中世の親鸞も法然の言うことに「賭けた」のだった。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。
総じてもつて存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。(「歎異抄」第2条)

「空」について、実体は存在しないという考え方。これは「縁起」から派生的に出てきたもの。

「空」の考え方の基本的な意味は、あらゆる存在や現象それ自体には、そういうものとして存在し現象する根拠が欠けている、ということである。それはすなわち、存在の「本質」とか「実体」として論じられているものが、錯覚や幻想にすぎないと考えることだ。(p41-42)

大乗仏教の考え方の中ではかろうじて、ブッダの考えの枠内に収まったものだ。

「他者」としての「親」の立場の特異性は、それを引き受ける意志も能力も備えていない存在に、依歩王的に最初の「自己」を課すことである。…人間において、「親」とは単に生き物として次世代の個体=「子」を産む存在ではない。そうではなくて、ある存在に対して「自己」を付与した責任を全面的に引き受ける、特別な「他者」としての存在の仕方なのである。(p45)

母がよく、「お前を生んでやったのに」と偉そうに説教のような事を言うが、そもそも親子の関係には根拠がない。根拠のないところに突然、親子という関係が与えられるのだ。
そのことに気づけない人は(親であろうが子であろうが)まともな親子という本来不可能な人間関係を位置付けることはできない。

互酬関係とは、互いに見返りがあることを前提としてはじめて成立する関係である。ところが、事前に見返りの確実性を完全に見通せるものは誰もいない。ゆえに、見返りを度外視して行動を起こすものがあって、はじめて互酬は起動する。すなわち、互酬関係は、その外側からの力が働かない限り開始されないのだ。
 大乗仏教の理想的修行者とされる「菩薩」の「慈悲」とは、まさにこの外部の力である。(p47)

阿弥陀の請願とはまさにこのことである。
そのような「外部の力」=「他力」があることなどとても人間には信じられない話だ。しかし、阿弥陀の本願なり「他力」なりがない人間がそれなくして生きることは不可能だ。そのことに気づかなければならない。
しかし、「熱力学の第二法則」から逃れることのできない生物がこうして生き続けることができるのは何らかの「他力」なしにはあり得ないのだ。

他者によって「私」になるという関係性からも人間は逃れることはできない。

死刑を望む者は、「他者」の否定によって、「他者に課せられた自己」という存在構造から「自己」を解放しようとしているし、自死者は「自己」を消去することで、構造から離脱しようとするのである。根源的な問題はここにある。(p56)

このことを突き詰めれば、そもそも自己という実体はないことに容易に気づくことができる。関係性だけのものなのだ。そのことに気づくことができれば自殺も減るのではなかろうか。

たとえば、現代日本において「もう生きていても無意味だ」と考える人は、「明瞭な意識を持ち、行動を自己決定できる者こそが正常な人間である」という考えを前提とするだろう。この考え方は、西欧近代以降の人間観を土台としていて、ということは結局、市場経済が造形する人間の存在形態である。(p59)

キリスト教抜きの西洋近代の考え方が日本に導入されて自殺大国になってしまったが、この南さんの話を聞けば少しは救われるのではなかろうか。

仏教が一貫して所有行為に批判的で冷淡なのは、所有という虚構や妄想に対する執着と制度化が、根拠を欠いている「自己」に「物の帰属先」としての根拠を錯覚させうるからである。「所有」に根拠を作り出すなら、「所有する自己」にも根拠が付与されるわけである。(p62)

しかし、資本主義は「自己」が確実に存在しているという架空の話があって初めて始まる。確固たる自己は架空のものだから移ろいやすい。しかし、そこにモノと価値というさらに架空のものを登場させて引っ付けて「自己」を強化する。かくて人間は自己とモノに雁字搦めにされて身動きが取れなくなってしまったのだ。

修行は、誰が何を目的に修行するのかが問題なのではなく、修行そのものを修行として完遂させることが重要なのであり、その修行において実存する者として自己を形成することが、仏教の体得なのである。(「道を道にまかするとき得道す」)(p67)

目的を持たずに修行する。いい言葉だ。人生を修行に喩えれば人生も人生そのものを人生として完遂させる。このことだけが実在する自己を形成していく。
何と尊いことばだろうか。