東京オリンピックが1年延期になり、オリンピックのないスポーツの日の直前に発表された記事には衝撃を受けた。

国際人権NGO(非政府組織)のヒューマン・ライツ・ウォッチが7月20日に発表した報告書が、日本のスポーツ界に衝撃を与えている。



この記事を読んで、私は一貫して運動はダメだったので、このような暴力の犠牲者になることはなかったが、才能のある人ほどこの記事にあるような被害にあっているらしい。

私は、子どもの時から足が遅く、運動会ではいつもゲボ(播州弁でビリのこと)だったが、この歳になるまで、トラやクマに追いかけられることもなく(もしそんな事態に遭遇したら、往年のボルトでも逃げ切れないだろうが)病知らずで健康に暮らさせてもらっている。

そもそもスポーツは人間に必要なものなのだろうか。

記事では日本のスポーツ界の実態について以下のような分析を行っている。

「スポーツ」という概念は明治期に西欧からもたらされたが、ときの政府要人は「たかが遊びではないか」となかなか理解しなかったそうだ。そこで、導入推進派は「スポーツは西欧列強に負けない強い兵隊を作ることに寄与する」という考え方を打ち出し、「富国強兵」の国是に乗ってスポーツ振興を行った。
日本のスポーツが「軍隊」に通じる、規律を重んじ、上下関係に厳しく、ときには鉄拳制裁も辞さない体質になったのは、こうした経緯があるからだ。
戦後、日本が民主主義国家になっても、そうした体質は一掃されなかった。あるベテランの元野球指導者は「軍隊から帰ってきた人がスポーツ指導者に収まってから、むしろ暴力は増えた印象だ」と語る。
この指導者も含め、暴力・暴言を否定し、まっとうな指導をしていた指導者はいつの時代もいた。それでも、全国大会などで実績を上げるのは「暴力・パワハラ指導者」だったため、つねに少数派にとどまってきた。

明治の政府要人の「たかが遊びではないか」という見解は正しかったのではないか。
そもそもスポーツの語源は、ラテン語で“deportare”で「日々の生活から離れること、すなわち、気晴らしをする、休養する、楽しむ、遊ぶなど」という。まさに「たかが遊び」なのです。

その「たかが遊び」が、近代オリンピックとなって政治と経済に雁字搦めにされている現代のアスリートの姿は見るに忍びない。彼らは古代ローマの剣闘士と本質的に変わるところがないのではかなろうか。

日本のスポーツ界は、明治時代からの「教育勅語」から離れられていないのだが、そろそろこれが異常な事態であるということに気づくべき時期ではなかろうか。

そんなことを考えながら、スポーツの才能に恵まれなかった自分自身に心から感謝したことだった。