「身体(からだ)」という言葉についての深い考察。


“自分に目を向けた時の(和語の)「からだ」とは「からだま(殻魂)」ともいわれ、「殻だ、空である」という感覚経験からできた言葉です。
 つまり、空っぽで何もない経験こそが「體(からだ)」だったのです。
 一方身に実(み)と似た感覚経験で「ある」「つまっている」「みちている、みつる」感覚経験を意味します。(p129)

非常に考えさせられる記述です。自分の身体を空と感じること、空だからこそ自由に働かせることができる。そして、この空を働かせているものは何か?
それこそが「実(み)」なんですね。「実」は「満ちる」であり、かつ「道」でもあります。空なる身体は道(神、仏(仏心))によって満たされている。これこそがわれわれの身体の実相なのです。

“このような時代に武術を学ぶ意味があるとしたら、私たちが普段「体」と思っているものは、概念上のやりとりの中で共同幻想のイメージで作られた「身体」であり、そこから目を覚まし、その共同幻想に気づいて自分の「身」と「体」を多少は見分けられるようになることだと思います。(p138)

武術を学ばなくても体が空で神や仏によって満たされることは感じることはできます。しかし、光岡さんのように身と体の「見分け」というのは私には実感できていません。やはり武道が必要なのだろうか。

“左右の手足で異なる役割をこなすことを自然に感じるのがアシメトリックな普通の身体性です。
 しかし、シンメトリーを要求する社会講堂に適した身体や「頭や概念で理解しているシンメトリーな身体観」が求められるため、普段から感じている身体と頭が理想とする身体に矛盾を感じながら生きています。それが現代人の大多数でしょう。(p142-143)

私もシンメトリーな動きが正しいと思いこんで何十年もラジオ体操をやっていたが、ある日やってちっとも快いことではないということに気づいてやめた。また、できるだけ自転車を利用せず歩く生活に変えてみたら、身体の機能がより自然に発揮できるようになりました。



現代人の多くが縛られている固定観念から一日も早く逃れられることを祈っています。
実は、妻にもいつもこのことを伝えているのですが、ジム信仰の激しい妻からは一笑に付されてしまっています。