先日から母の女学校時代の同級生が宝塚市の仁川の老人ホームにいるので連れていけと私に言う。仁川は私の家族が姫路に引っ越しする前に住んでいたところで、そこで震災にも遭った場所なので、一度再訪してみたいと思っていたところでした。

そこで昨日(2月15日(土))に母を連れて行ってきました。

老人ホームは阪急の仁川駅から数分のところで、母も数年前には坂越に住んでいた同級生の友だちと二人で電車で行ったことがあります。
その同級生も亡くなり、母も体力が落ちて電車で行けるような状態ではないので、今回は車で行くことにしました。

ナビで確認すると山陽・中国道経由で1時間10分ほどなので、ランチ休憩を入れて11時半に母を迎えに行く。前日訪問したときにはひどい下痢をしたと言っていたので心配していたが、聞くと「べっちょうない(大丈夫だという播州弁)」で答える。大した人である。

母は道に詳しく、私はナビの言うとおりの道を通るが、母がいちいち「なんでそんな道を行くんや」みたいなことを言うので気が散る。いつまでも子どもに口出しするのが正しいと考えているのである。

三木のSAでランチにする。母は障がい者の認定を受けているので障碍者用のパーキングが使えるのでありがたい。トイレは目の前にあるが、母は先に食事を取るという。

メニューに食欲をそそるような品は少なかったが、母は細麺のザルうどんが食べやすそうだったので勧めるとそれでいいという。私は少ない選択の中から加古川のB級グルメのカツめしをチョイスする。カツめしを初めて食べたのが10年も前だっただろうか。何とも言えない曖昧な味の洋食である。コロモがカリカリで食感が良かった。
母も不味いと言いながらも8割程度食べていたので上出来と言っていい。

食事の後はトイレを済ませ、仁川に向かう。土曜日なので道は空いていたが、名塩の手前3㌔ほどで渋滞になる。新名神が開通してから渋滞はなくなったが何だろうと思っていると、事故だという。半時間くらいノロノロ運転となった。

問題の事故現場では、なんとトラックが1台、逆さ向きになっています。直線で関係車両も見当たらなかったので何でだろうと不思議に思う。

事故現場を通り抜けると、また道はスイスイで13時50分頃に母の同級生の住む老人ホームに着く。

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「くらら仁川」という施設で、ベネッセの経営している老人ホームです。

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ピンポンで訪問の趣旨を告げると、係の人が出てくる。ドアの開閉はいちいち人がドアのPWを入力して開閉するようになっている。

訪問者は手洗いとうがいをしてアルコール消毒しなければならない。母にも同じことをさせて3階に上る。
3階のロビーでは大きな音で童謡のビデオが流されていて、一人の女性入居者が観ている。その傍では若い男性従業員があわただしく働いている。訪問中ずっと同じ童謡のビデオが流れているので耳に残って困った。

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母の同窓生Aさんは廊下の一番奥の部屋に住まっている。従業員が部屋を教えてくださる。

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一旦部屋をノックしてドアを開けると、Aさんはテレビの前の椅子にすわってテレビと睨めっこしている。

この施設には、面談室というようなものはなく、3階ロビーもビデオは童謡をガンガン、それを観ている人もあり、部屋は陰鬱なので廊下端の二人用のソファーに座って二人は話すことにする。

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左がAさんで右が私の母。Aさんは一日中自室でテレビを観る生活だが、きちんとした身なりをしておられる。

無事に母をAさんのところに連れてこれて一安心。私は、仁川界隈を散歩することにして施設を後にする。

まず施設を出て東に向かって歩きはじめる。

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普通の日本の町並です。震災の傷跡を認めることはできません。
さらに東に向かって歩くと、更地を認める。

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敷地全体が、この地域特有の地質である真砂土です。
この地域は天井川である仁川の土手の上にあります。仁川は六甲山の御影石が風化した真砂土が押し流されて天井川を形成したのです。
地盤は軟弱でそもそも家を建てるような場所ではなかったのです。

さらに道を東に進むと小仁川に出る。小仁川は駅の北にある弁天池を水源にしている。

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橋がありここからは眺めがよく六甲山が一望です。

北側は阪神競馬場。

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当日は、開催日ではなかったようだが、場外は開かれているのだろう。

橋を渡ると仁川沿いの道に合流する。

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南側は西宮の仁川町です。西宮側にはマンションが見られず、街並は宝塚側に比べると好ましい印象を与える。

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震災前からあった、アミスタ仁川。さすがにしっかりした建築で震災を経て、建て直しされなかった数少ないマンションです。

その隣が私の住んでいた社宅の建っていた後に建てられたマンション。

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大きなマンションだが、5階建てと控えめ。都市計画で決まっているのだろう。

目を南に向けると、社宅の前に建っていた豪邸。震災時、大きな被害を受けていたが未だに再建されず更地のままで駐車場になっている。

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震災時の様子。

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社宅のあった場所を後に、駅の方に向かう。

当時は何もなかった駅前は再開発で大きなビルになっている。

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1階には、COOPが入っている。
震災の当時から近隣での買物はCOOPだったが、現在もここです。

駅の方に向かうとここにも中高層マンションの姿。

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駅前のロータリー。

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阪急仁川駅。基本、震災前とは変わっていません。

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駅前には六地蔵(実際は8つあるが)。特に由来は書かれていないが、震災の被災者の慰霊の目的にしたものであろう。

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小一時間散歩してまた施設に戻る。入館するとまた手洗い、うがいをして3階に戻る。

母はAさんに昔の写真を渡している。母とAさんたちはよく旅行をしていた。Aさんは赤穂から西宮の息子さんの近所に引っ越しし、病気で入院して退院して今の施設に移ったときに家財がわからなくなってしまったらしい。そこで母が昔の写真を渡しているのである。

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母から聞いた話では、Aさんは、結婚して早い時期に離婚された。一人息子がいて母ひとり子一人の生活だったらしい。息子さんは医者になったが、息子はAさんの気に入らない人(看護師)と結婚するということで強い反対をする。息子さんは、母の反対を押し切って結婚する。
その後、息子は西宮で開業し成功して、豊かな暮らしをしている。
息子さんは高齢化するAさんを心配して、Aさんを西宮のアパートに呼びよせる。
そこでAさんは病気になり、入院したが退院したら息子が段取りした施設に入ったというわけです。
施設は月35万位するものらしいが、Aさんは持ち金すべてを息子に預けて生活しているらしい。その持ち金も底を尽きつつあるそうだ。息子さんが開業医なのでいざとなれば補助してくれるのだろうが、それも不安の種らしい。

しかし、思い返してみれば、事の起こりはAさんが息子さんの結婚に反対したことに始まっている。大の大人の判断を否定するなどということはやってはいけないことだ。そのことに対する反動が今のAさんの不幸につながっている。

施設の人に聞いたところでは息子さんや嫁さんも1月に一回位は来られていて、よくされているというという。Aさんはそのことを喜べばいいのにと思う。

それにしても他者の自由を奪った場合、どんな報いが来るか知るには良いケースだと思う。本当はAさんに息子さん夫婦に謝罪することを勧めなければならないのだが、当日は言いきれなかった。Aさんと母とは息子夫妻に対する悪口で盛り上がっているのですから。
私がAさんにそう言うことも機会があればあるかもしれない。

15時40分ごろ施設を後にして、帰路に着く。帰途、母に今日は疲れたでしょう、と聞くと「どないもあらへん」とのことであった。

「車はどないなった?」と聞くので何のこと、と問い返すがどうやら往路であった事故の車のことらしい。よく覚えていたもんだ。認知症の検査ではすぐ忘れるが、印象に残ることはよく記憶に残るらしい。
母はまだまだ「べっちょない」ようである。