「国語」というのは、西洋近代に衝突した「現地語」が止揚して発生したものなのです。


  • 一回しかない人類の歴史のなかで、あるとき人類は<国語>というものを創り出した。そして、<国語の祝祭>とよばれる時代が到来した。<国語の祝祭>の時代とは、<国語>が<文学の言葉>だけなく<学問の言葉>でもあった時代である。さらには、その<国語>で書かれた<文学の言葉>が、<学問の言葉>を超越すると思われていたのである。
     今、その<国語の祝祭>の時代は終わりを告げた。(p318)
一般的には、現在ほとんどの学術論文は英語で書かれるのでグローバリズムの世界において、すべての「学問の言葉」は国語では書かれなくなっているのです。
  • 悪循環がほんとうにはじまるのは、<叡智を求める人>が<国語>で書かなくなるときではなく、<国語>を読まなくなるときからである。(p319)
悪循環はすでに始まっているのです。
  • かくして悪循環がはじまり、<叡智を求める人>にとって、英語以外の言葉は、<読まれるべき言葉>としての価値を徐々に失っていく。<叡智を求める人>は、<自分たちの言葉>には、知的、倫理的な重荷、さらには美的な重荷を負うことさえしだいに求めなくなっていくのである。(p320)
かくして、学問の世界での現象は文学にも起こっています。
  • 英語が<普遍語>になったことによって、英語以外の<国語>は「文学の終わり」を迎える可能性がほんとうにできてきたのである。すなわち<叡智を求める人>が<国語>で書かれた<テキスト>を真剣に読まなくなる可能性ができてきたのである。それは、<国語>そのものが、まさに<現地語>になり果てる可能性がでてきたことにほかならない。(p321)
わずかな「叡智を求める人」が「国語」から離れて「普遍語」の世界に行ってしまったら、残されるのは「現地語」のみを使う「叡智に無縁な大衆」だけになってしまうのでしょうか。