第6章「インターネット時代の英語と<国語>」


  • 大衆消費社会とは、マスメディアを通じて、富豪も文無しもやんごとなきも、庶民も深い教養人も気の毒なほど無知な人も、みんながほぼ同じ情報を共有せざるをえない社会であり、そこでは、みながほぼ同じ情報を共有せざるをえないがゆえに、みなが大衆の一員でしかありえない。(p297-298)
ネット社会では確かに情報という面ではみんなが同じレベルになりました。特定の立場の人のみに情報が集まるというのは幻想で、その気になればだれでも同じ情報にアクセスすることができます。
  • 大衆消費社会の中で流行る文学はそこに書かれている言葉が<読まれるべき言葉>であるか否かと関係なしに、たんにみなが読むから読まれるという本だからである。(p298)
たしかにそのとおりです。
  • 本は常に<文学価値>と<流通価値>という二つの異なった価値を内在する大衆消費社会の出現は、二つの価値のあいだにある恣意性を大きく広げただけではない。大衆現象の一環として本を流通させることによって、その恣意性をほとんど無限大に拡大させることになった。(p299)
今、市場では「読まれるべき言葉」ではなく「読まれる言葉」が恣意的に選択され流通されているわけです。
  • 科学の進歩などが広い意味での「文学の終わり」をもたらすことはありえない。科学が進歩するに従い、逆に、科学が答えを与えられない領域ーー文学が本領とする領域がはっきりしてくるだけだからである。ほかならぬ意味の領域である。科学は、「ヒトがいかに生まれてきたか」を解明して「人はいかに生きるべきか」という問いに答えを与えてはくれない。そもそもそのような問いを発するのを可能にするのが文学なのである。もし答えがないとすれば、答えの不在そのものを指し示すのが文学なのであろう。いくら科学が栄えようと、文学が終わることはない。(p300)
大衆消費社会の現代において吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」が読まれているという現象は、このことを示しているのでしょう。
  • 英語の世紀に入ったとは何を意味するのか。それは、<国語>というものが出現する以前、地球のあちこちを覆っていた、<普遍語/現地語>という言葉の二重構造がふたたび蘇ってきたのを意味する。(p301)
日本であれば幕末の言語状況がふたたび巡ってきたようなものです。
  • インターネットによる英語の支配と、インターネットで流通する意味が多様化しているという事実とはまったく、矛盾しない。英語と英語以外の言葉では、異なったレベルで流通しているからである。(p303)
意味が多様化している、ということにあまり気づいたことがありませんでした。