近代は、国語を駆使して「国民文学」を生み出しました。


  • ヨーロッパで<国民文学>としての小説が満天に輝く星のようにきらきらと輝いたのは、まさに<国語の祝祭>の時代だったのであった。それは、<学問の言葉>と<文学の言葉>とが、ともに、<国語>でなされていた時代である。そしてそれは、<叡智を求める人>が真剣に<国語>を読み書きしていた時代であり、さらには、<文学の言葉>が<学問の言葉>を超えるものだと思われていた時代であった。(p189)
すなわち叡智を求める人が国語を使い発展させたことによって国民文学が可能になったのです。
  • <国語>とは、もとは<現地語>でしかなかった言葉が<普遍語>からの翻訳を通じて、<普遍語>と同じレベルで、美的だけでなく、知的にも、倫理的にも、最高のものを目指す重荷を負うようになった言葉である。しかしながら<国語>はそれ以上の言葉でもあった。なぜなら、<国語>は、<普遍語>と同じように機能しながらも、<普遍語>とちがって、<現地語>のもつ長所、すなわち<母語>のもつ長所を、徹頭徹尾、生かし切ることができる言葉だからである。(p188)
そういえば、最近日本語が「普遍語」の機能からも「母語」の機能からも遠ざかっている気がする。これはきっと使っているわれわれが叡智に対する意志やことばに敬意が薄れてきたことによるのではないだろうか。