池田晶子さんは、親子関係についても人間の存在という観点から深く哲学しました。
以前の議論をさらに深めてこんな議論もしています。
考える日々 全編
池田 晶子
毎日新聞社
2014-11-27

  • いかなる子供も必ず親を乗り越えようとする。子供の精神にとって親の精神とは、本来的に乗り越えられる否定性としてあるのである。時にははっきり指摘するかもしれない、「私はあなたのそういうところがダメだと思う」。
     この瞬間、その指摘こそが、親にとっては子供をつくったその理由なのだと私は考える。子は親を乗り越えてゆく。自身を必ず乗り越えてゆく存在をあえて自身が作り出すとは、そのことこによって自身を乗り越えようとすることに他ならない親とは自身の否定性を乗り越えるためにこそ、あえて子という否定性を産み出すのである。これが、子作りとは精神の自己克服であるという、荒唐無稽な説である。
     いかにもヘーゲルふう弁証法のようでもあるが、平たく言えば、子は親の鑑であるという人の世の真実である。けれども、この人の世においてほとんどの親は、親が子を産むのだから、親は子よりも偉いと思い込んでいる。だから、子供による指摘なんぞは耳を貸さない。自ら自己克服の機会を作っておきながら、自らその機会を逃すのだから、人間は愚かである。
     だいいち、子は親が産むものだと人は思っているけれども、子が生まれなければ親は親ではないのだから、じつは子供とは親の子供であるのではない。子供すなわち「その人」と、その人の肉体がそこから生まれたその親とは、論理的には全く無関係なのである。
  • ところで完全無欠な人間はこの世に生まれていない。ある人がこの世に生まれたのは、どこか欠けたところがあるからであり、その人が子を産むのも、どこかしら欠けたところがあるからである。子を産まない理由として、自分のような子が産まれると困るからと言う人がいるが、これはおかしい。自分の欠けたところを知るためにこそ、人は子を産むべきなのである。(3年目12月「いきなりこの世に産み出されて」)
なるほどと唸りました。
実際、人間の場合、精神というか心をもった以上、子というものは他の動物とは違った意味合いを持っている。もちろん、動物と同じく種の維持のみを目的としたものであるという考え方もあることは十分承知しています。
しかし、そのような考え方は人間が生きていく上でどういう価値があると言えるでしょう。

心を持った人間にとっては、生のある限り、心を磨くこと、心の元となる魂をいかに磨いていくか、ということが他の動物と違った唯一の価値であると思うのです。
そうすれば、生まれた子どもを最も身近な存在としてどう付き合っていくかということが重要になってきます。
池田さんには子どもはなかったと思いますが、子どもの立場から見事に親になることの意義を喝破し、われわれに教えてくれているのです。
本当にありがたいことだと思いました。

本日もお読みいただきありがとうございました。