一時期大阪を席捲しメディアの寵児となった橋下徹。今となっては政治家として一体何をやったか一切不明である人だが、未だに大阪のメディアは大いに重宝しているようでよくTVに登場している。
今となっては、この橋下徹氏が何をやって何が成果(あるいは失敗)だったのかを検証した人はいない。ところがこれを検証し、メディアや大阪府民(あるいは国民)が今後どう対応すべきかという難しい問題に取り組んでくれた人がいた。
元神戸新聞記者で現在はフリーランスのジャーナリストの松本創さんだ。松本さんはメディアという組織の中からはすることのできない橋下現象を整理し、検証して将来の再発に対応できるよう本にしてくれた。
この本を読むと、「トランプ大統領」という類似の問題にも対応できるようにも思う。
多方面からの分厚い検証でなかなか説明しがたい内容だが最後の節「橋下徹とは何者だったのか」でコンパクトに検証結果が要約されているので引用する。
前述のようなメディア状況の中で政治家・橋下徹は登場してきた。
在阪メディアにとって、当初は身内であり、同志であり、得難い取材対象であり、おいしいコンテンツであった橋下は、しかし、やがて大きな脅威となっていく。なぜなら、既に何度か書いてきた通り、彼自身がメディアだったからだ。どの新聞やテレビよりも大衆の気分と欲望を感知する能力に長け、感情に訴えるわかりやすく強い言葉を持ち、世論を喚起する訴求力を備えた。“人間メディア”たる橋下は、世の中に鬱積していたマスメディア不信をバ″クに、鋭い刃を向けてきた。
なぜマスコミだけが情報を独占し、報道や言論の自由で守られるのか。なぜ彼らだけか社会の代表のような顔をしてきれいごとを語り、批判してばかりいて許されるのか。なぜ選挙で信託を受けたわけでもない記者ごときが高い給料をもらい、社旗を立てたハイヤーを乗り回し、政治家や権力者に伍してえらそうにこの国を語るのか。
「何様のつもりか」「選挙に通ってから言え」と橋下がメディアに食ってかかる言葉は、そうした大衆の気分を見事に代弁していた。それは、既得権益への反感であると同時に、既存メディアが標榜してきた民主主義への懐疑と批判でもあった。きれいごとの建前なんかいらない。したり顔の論評や解説も、まどろっこしい議論もいらない。やるかたない不満を一時的にでも解消するバッシンクの相手と断罪の言葉があればいい、というような。
大衆のルサンチマンを凝縮した言葉を橋下にぶつけられたマスメディアは戸惑い、立ちすくんだ。なぜなら、彼の主張や振る舞いはまさに自分たちか数十年にわたって唱え、社会に広めてきた価値観と言葉をそのままトレースしていたからだ。
漸進的な改善策や定常型の社会よりも、新しく大胆な「改革」や「変化」を良きものと持て囃す。「納税者」というより「消費者」的な損得勘定で、行財政コストや公務員数の削減を迫る。公的セクターが担ってきたサービスを市場化・民営化し、自由競争にさらせば値段は安く質は高くなると単純に考える。そして、市場で勝ち残った物だけに価値を認める。スピードと効率を重視し、そのため政治家に強いリーダーシップを求める。
これら新自由主義的な改革志向に加えて、言論や報道の手法の問題も大きい。
「改革派」「抵抗勢力」といったレッテルを貼ってバトルを煽る。「激論」「徹底討論」などと称して、声の大きい者がその場を制することをよしとする。極論や暴論であっても、わかりやすい断言や直言を面白がる。物事を単純化し、善悪や白黒の結論を急ぐ。目先の話題やニュースを競って追いかけるか、立ち止まったり、振り返ったりして検証することがない。
どれも小泉ブームの当時から漠然と社会を覆っていた空気だが、橋下はその主張と手法をより確信的に、より先鋭化させて大阪に持ち込んだ。そして、「改革」という名の破壊を性急に推し進めようとした。それに賛成するか反対するか二者択一を迫り、大阪の人びとを分断した。
マスメディアは歯止めをかけられないばかりか、流れに棹さした。「今」を追うことだけに汲々とし、自らの報道姿勢を問うことをやめ、効率とわかりやすさに身を委ねるうち、最も大切にするべき「言葉」を橋下に乗っ取られてしまったからだ。とりわけテレビの罪は重いと私は思っている。私は橋下と同い年だが、少なくともこの四半世紀、テレビに映るニュースやバラエティー番組は、先に列挙したような価値観と言論を強める一方だったという印象がある。
橋下を「テレビ政治家」「テレビの申し子」だと私が言うのは、彼がテレビで名を売り、テレビを利用して政治を動かしてきたからばかりではない。テレビ的な価値観と言論を誰よりも深く内面化した人物だと思うからだ。彼が府知事時代に「府民は視聴者だと考えていた」と語ったのは、比喩でも誇張でもなく、偽らざる本音だろう。
橋下徹という政治家は、現代のメディアと大衆か生んだ「必然」であった。決して大阪の8年間だけで終わる話ではない。仮に、橋下がほんとうに政治の表舞台から去ったとしても、その土壌は分厚い層となってこの社会を覆ったままだ。
メディアが自らの行ってきた報道を掘り起こし、検証し、ジャーナリズムの精神を取り戻さなければ、「橋下的なるもの」は何度でも生まれてくるだろう。
この要約は、一応はメディア批判のようであるが、同時にそのメディアの行動を求めるわれわれ日本人自身への批判であることをも示している。
つまりわれわれ日本人がメディアに求めているコンテンツが橋下を生んだということだ。
そんなことを思いながらボンヤリTV画面のバラエティを眺めていると、次なる橋下がスタンバイして画面の向こうから飛び出そうとしているようで怖い。
われわれ日本人は、もっとしっかりした考えを持たなければしっかりしたメディアも政治家も育つことはなく、まして世界から尊敬されるような立派な人間や国家を造り上げることなどできるわけがない。